INTERVIEW

本を読むときに系統樹で考えるための《可視化することばとビジュアル》

三中信宏×山本貴光:本を読むときに系統樹で考えるための《可視化することばとビジュアル》
中編「デザインの視点からデータを考える」

本を読むときに系統樹で考えるための《可視化することばとビジュアル》

2015年11月11日にパシフィコ横浜「第17回図書館総合展」B&Bブースで行なわれた、『THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス』(マニュエル・リマ、ビー・エヌ・エヌ新社、2015年)の翻訳者・三中信宏さんと、紀伊國屋書店主催の「紀伊國屋じんぶん大賞2016 読者と選ぶ人文書ベスト30」において7位を受賞した『本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』(ピーター・メンデルサンド、フィルムアート社、2015年)日本語版解説・山本貴光さんによるトークイベントの模様を、前・中・後編にわたってお送りいたします。
科学とデザインとの関係性、本とグラフィックスのあり方など、これからのメディア、編集を考える上で示唆に富む話題が繰り広げられる本対談、お楽しみください。

【以下からの続きです】
前編:「ネットワークを読み解くリテラシーを、基本的に人間は持っていない」

データを“読める”ものにするには、サイエンスではなくアートが必要

山本:今のお話を伺ってコンピュータのプログラムのことを連想しました。プログラムはコンピュータに対する命令を書き連ねたものですが、その基本は、if A then Bという形をしています。これは「もしAという条件が満たされた場合はBを実行せよ。そうでない場合は何もせず次に進め」という意味です。コンピュータに何か命令をする場合、このような条件分岐を使って、処理を枝分かれさせるのです。これはお分かりのように一種のツリー構造です。
 しかし、このような条件分岐が複数組み合わさってゆくと、最終的にできあがるプログラムはほとんどネットワーク構造に近づいてゆきます。処理があちこちで繋がったり、ループを描いたりするのですね。それだけに、プログラム中に潜む間違い(バグ)を見つけたり修正するのも一苦労ということになります。
 ゲーム開発では、複雑なプログラムの挙動をどうやってチェックするかというと、最後は人海戦術です(笑)。プログラムを実行した結果生じるさまざまな状態について、端からチェックするしかないのです。例えば、3Dで作ったゲーム世界の空間が、問題なくできているかどうかを本当に確認したかったら、変なところに隙間がないかどうかを自分の目と手で確認することになります。

三中:そんなことやるんですか。

山本:プログラムは、部分部分をツリー状に書いているけれど、その全体の挙動は、あちこちで繋がりあったネットワーク状の挙動をとる。しかし、三中先生もおっしゃったように、人間はネットワーク状のものをうまく見てとれない。
 話を戻せば、それでもなお私たちがネットワークを使うとしたら、どんなふうにつきあうとよいでしょう。

三中:おそらく現実世界は、ネットワークであらわすのが正確だろうと思います。
 例えば生物進化はツリーであらわしているんですが、本当はネットワークなんです。ただ、ネットワークを描いてしまっても、読めない。われわれが進化について見ようとするときには、正しくはネットワークで描くのが正しいのかもしれない。しかし読めない。だからツリーでまとめるというのが考えられますね。

山本:実態はネットワークだけれど、我々がそれを見るためのインタフェースとしては、一旦ツリーのかたちに変換して見る、ということですか。

三中:そうです。最近だと、例えば遺伝子の情報から系統のネットワークを推定することはできるんです。ただ、コンピュータのソフトウェアに、データを放り込んで、系統ネットワークを推定させると、結論としては読めないんですよ。
 しかし、日本でも遺伝子の系統ネットワークを研究されている方が何人かいらっしゃるのですが、そういう方の系統ネットワークって読めるんですよ。なぜかというと、そのネットワークを描いてる研究者は、実は個展を開くほどのアーティストなんですね。要するに、アーティスティックな面で、最後どういうふうにわれわれが見えるようにするのかを考えてつくっているから、読むことができる。
 ネットワークを描こうとも、事実としては正しいかもしれないが、一般の人達、あるいは研究者が読めない。読めるようにするためには、サイエンスではなくアートが必要になる、こういった関係がでてきますね。

山本:サイエンスにも、見て分かるようにするためにデザインが必要だということですね。

三中:サイエンスだけではどうにもならない。

山本:まさにサイエンス&アート、「学(science)」と「術(art)」とが手を携えないと対応できない事態なわけですね。

三中:そうです。ところが一般の研究者は、普通アーティスティックな才能はないですから、ちょっと困るんですね。

山本:これからはますますアーティストとサイエンティストが組んで、表現をつくっていくことが重要になりそうですね。

三中:それが必要だと思います。それこそこの本で扱われている「インフォグラフィックス」、膨大な情報をどのように可視化するのかという問題は、おそらく科学者、研究者だけではやっていけない、やろうと思ってもやれない。
 そのため、デザイン的な視点から見るというのが必要なことだと思います。全然未開拓な領域ですね。

山本:みなさんの中でアーティストやデザイナーがいらしたら、サイエンティストと協働する方向も模索されるとよいかもしれません。

三中:データのヴィジュアライゼーションやインフォグラフィックスは、日本では美大などのデザイン関係のところでやるんだけれども、おそらく適用範囲というか、使われる状況を考えれば、サイエンスの領域のほうが使える可能性が広いのではないかと。有効な情報の上手い可視化、ツリーやネットワークを読めるものにするということは、それこそサイエンスの世界で求められていることなので、是非コラボレーションが必要だと思います。

山本:この点にもう少し踏み込むと、その時デザイナーやアーティストの人たちにどんな基礎的な素養があれば、サイエンティストと協業するのに役に立つでしょうか。これを踏まえていれば、やりとりが上手くいきそうだ、といった共通基盤は何か考えられますか。

三中:私もよく視覚化や可視化という言い方をしていますが、それって本当はなにか分からないところがあるんですね。描き方によっては綺麗にみえる、よく理解できる場合もあれば、変な描き方をすれば見えなくなる、これは可視化の違いですよね。
 どのような基準で見える、見えないかが決まっているのかを考えると、認知心理学的な、もっと別の次元がありますね。そういうところでわれわれ人間の目から見て、こういうデザインは見やすい、あるいは見にくいというのは、なんか決まっていると。
 となると、今度は認知心理の世界の、もっともっと怪しい世界がでてくるので (笑)、サイエンスでは立ち行かなくなります。つまり周辺の領域(アートや認知心理学)とどういうふうにコラボレーションしていくかという問題がでてくるんですよね。

山本:つまり、人間が見るものを作るということは、否応なく人間の要素が関わってくる。そこでは、人間がものをどう見るかという知見が必要になる。デザインをする際にもそうした認知心理にかかわる知見が活用されるわけですね。

三中:そうですね。見てわかる、分かりやすいということは、これは単にサイエンティフィックな事実だけではないんです。データそのものをどう見せるか、そういう問題がありますので、これはちょっと、実は大変なことなんじゃないかと思います。

山本:手がかりを一つ申せば、ダニエル・カーネマンという認知心理学者が、『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』(上下巻、早川書房、2014年)という本で、認知心理学の実験を山ほど紹介してくれています。そこにはデザインにまつわる話も沢山でてきます。
 例えば、同じ文章でも表記に使われるフォントによって、読み手がその文章を信用する度合が変わるとか、同じ単語のリストでも、並べる順序によって読み手が受ける印象が変わるということもあるようです。あるいは、テストをする際に、くっきりと印刷されて見やすいプリントで受けた人と、文字がかすれたりして少し読みづらい状態のプリントで受けた人では、どちらの試験結果がよいかなんて実験もあります。
 普通に考えたら印刷が鮮明なほうが読みやすいのだから、結果もよくなりそうなところです。実際には、不鮮明な印刷のほうが結果はよいとのこと。見づらいと、かえって問題文を注意深く読むということのようですね(笑)。

三中:そこですか (笑)。

山本:たとえ同じ内容の文章やデータでも、どのような見え方で提示するかによって、受け取る人の印象や姿勢は大きく左右されるわけです。ここにはまさにデザインの力がかかわりますよね。
 三中先生がおっしゃったように、サイエンスとデザインがうまく協働することで、われわれ人間の認知でも、ネットワークをとらえやすいような可視化もできる気がします。

マルジナリア(余白)にメモを書き込まないと分からない

三中:今の話だと、例えば、いわゆる単にテキストの文字面だけではないわけですよね、どんなフォントで書かれているか、どんな鮮明さで書かれているかで、読みとり方が違う。

山本:例えば、現在はものを読むことについても、「紙で読むか、デジタルで読むか」という選択肢があります。一見すると、同じ文章であれば、どちらで読んでも同じ体験であるといいたくなる。でも、実際には読むための媒体(メディア)、デザインやデバイスが違えば、読み方も変わってしまう可能性がある。デジタル環境での読書や読字に関しても研究が進められてきていて、込み入った内容の本はデジタルだと読みづらいという調査もあります。
 三中先生は普段本をお読みになる際、紙もデジタルも両方駆使していらっしゃいますか。

三中:私電子本って読んだことないんですよ。

山本:あ、そうですか! 論文を読む場合はどうされていますか。

三中:全部紙です。もちろんPDFでも持っているんですが、読むときは全部紙に印刷して読んでいます。

山本:何か理由がありますか。

三中:本でも論文でもそうなんですが、マルジナリア(余白)にメモを書き込まないと分からない人なので、そういうのが自由にできる媒体といえば、紙しかないですよね。電子本でもマルジナリアにいっぱい書き込みできるといいのですが、そういうことでもないので、必ず紙です。そんなわけで、電子本なるものは、私の研究室にまったくないですね。

山本:てっきりデジタル環境でも読書をしていらっしゃると思い込んでいたので、ちょっと意外でした。
 私も本の余白に書き込まないとうまく読めません。赤ペン持ってないと本読めない体になってしまっていて、ペンを忘れるとその日は本が読めないんですよ(笑)。そういうときは、文具屋に飛び込んでまずペンを買う。
 三中先生は、余白をどう使われていますか。

三中:私が一番やっているのは、重要なところにアンダーラインを引いて、それに関して自分の考えを書く、というものですね。一回読んで、例えば二回目見たときに、パッパッとスキップしながら、重要な点が把握できるようにしています。

山本:読んで触発されたことや、場合によっては異論や反論などを書く。

三中:もちろん全部書いてます。

山本:そうした余白の使い方は、ご自分で工夫されてきたのですか。それとも、そういうことを教えていただくような経験があったのですか。

三中:おそらく、自分でそういうふうに収束させていったんだと思います。

山本:いろいろ試しながら、最後にそうなっていった。

三中:私は基本的に本を読んだら、必ず書評を書くことにしているんです。その際、必ず余白に何を書いたかを見ながら書評を書いてます。そういう意味で、半分自分の読みグセみたいなものがあるんじゃないかと思います。

山本:学生に教える一環として、本の使い方などを指導したりすることはありますか。

三中:そういう機会があるときは、自分の持ってる本を渡して、「こんな感じ」と。それでフォローしてくれるかは分からないのですが、昔からそういう本の読み方で統一しているので、学生にもこんな風に読んでると見せればと。

山本:先生がやっていることを見て、同じようにする学生も出てくるわけですね。それが手っ取り早いかもしれません。

三中:まあ最近みなさんは電子本読んでますけどね (笑)。あれ電子本ってちゃんと読めてるんですかね? 怖いですよ。

山本:不安ですよね。本への書き込みには、一種マッピングのような機能もあると思います。本がひとつの街だとしたら、そこを歩きながら、「ここにはこういうものがある」という具合に、自分なりの地図を描いて把握する。誰かが作った地図ではなくて、自分の手と頭を動かしてこしらえているから、記憶にも入りやすいわけです。逆にいえば、書き込みをせずに本を読むのは、そうした地図を作らずにぶらぶらするような感じでもあります。

三中:そうですよね。特に専門書が電子本の場合、ちゃんと読めてるのかな、頭に入ってるのかなー。思ったことはどうするんだろうと思いますね。

山本:作家や学者にも、本の余白に書き込みをしている人はたくさんいますね。例えば、コウルリッジの書き込みは本にもなっていてよく知られた例ですが、ネットで探せばニュートンの書き込みや『白鯨』を書いたメルヴィルのマルジナリアを見られます。おすすめは漱石の蔵書への書き込みです。岩波書店の『漱石全集』第27巻(別冊下巻)にまとめられています。

三中:そんなのあるんですか?

山本:これがたいそう面白いんですよ。「この本のこのページに漱石がこう書き込んでいる」というメモを集めたものです。

三中:自分の作品に対してのマルジナリアってことですか?

山本:いえ、他の人の本への書き込みです。その言葉がいちいち興味深いんです。賛成のときは「然り」とか「余もそう思う」と書いてあるのですが、たぶんあまり気に入っていない場合は「ソーデスカ」と書いてある (笑)。

三中:ぜんぜん気がないですね。

山本:先ほど三中先生がおっしゃったのと同様に、何か思いつくことがある場合にはそのことも書き込まれています。漱石は、図書館で借りた本にも書き込んだことがあるようです(笑)。本来いけないことだが、ぜひとも読みたい。読むには書き込む必要がある。そこで、後から同じ本を買って図書館に返そうというのです。彼もまた、書き込みをしないことには本が読めない人だったわけですね。
 漱石には「余が一家の読書法」という短いエッセイもあります。これを読むと、本というのは読んで示唆(サジェスチョン)を得ればよいものなのだと説いています。一言でも一行でも、読んで何か思うことがあったなら、それで既にその本と出会い読んだことに意義があったというわけです。非常によいエッセイで、三中先生がおっしゃった本の使い方とも通底していると思います。

後編「デザイン的な視点からデータを考える」に続きます]

構成:佐々木未来也(Concent, inc.)
(2015年11月11日、「第17回図書館総合展」B&Bブースにて)


PROFILEプロフィール (50音順)

三中信宏(みなか・のぶひろ)

1958年、京都市生まれ。東京大学大学院農学系研究科修了。国立研究開発法人農業環境技術研究所生態系計測研究領域上席研究員。東京大学大学院農学生命科学研究科教授(生物・環境工学専攻)、京都大学大学院理学研究科連携併任教授、および東京農業大学大学院農学研究科客員教授を兼任。専門は進化生物学・生物統計学。現在は、主として系統樹の推定方法に関する理論を研究。著書に『分類思考の世界』(講談社現代新書)、『系統樹曼荼羅―チェイン・ツリー・ネットワーク』(NTT出版)など。

山本貴光(やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。1971年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(プログラム/企画)に従事。2004年からフリーランス。東京ネットウエイブ、東京工芸大学で非常勤講師。株式会社モブキャストとプロ契約中。著書に『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)など。