2015年11月11日にパシフィコ横浜「第17回図書館総合展」B&Bブースで行なわれた、『THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス』(マニュエル・リマ、ビー・エヌ・エヌ新社、2015年)の翻訳者・三中信宏さんと、紀伊國屋書店主催の「紀伊國屋じんぶん大賞2016 読者と選ぶ人文書ベスト30」において7位を受賞した『本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』(ピーター・メンデルサンド、フィルムアート社、2015年)日本語版解説・山本貴光さんによるトークイベントの模様を、前・中・後編にわたってお送りいたします。
科学とデザインとの関係性、本とグラフィックスのあり方など、これからのメディア、編集を考える上で示唆に富む話題が繰り広げられる本対談、お楽しみください。
山本貴光(以下、山本):今日は対談のテーマである2冊の本を真ん中に置いて、三中先生とお話しをして参りたいと思います。
1冊は、三中先生が訳されたマニュエル・リマの『THE BOOK OF TREES――系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス』です。この本は、系統樹の図像を集めて分類を施し、ヴィジュアルとともに解説したものすごい本です。内容も多岐に渡るだけに、誰にでも訳せるというものではありません。
もう1冊は、ブックデザイナーのピーター・メンデルサンドがつくった『本を読むときに何が起きているのか――ことばとビジュアルの間、目と頭の間』です。この本は、ページを繰ると分かるのですが、最初から最後までヴィジュアルが満載で、本(主に小説が題材です)を読むときに私たちの頭の中、意識の上で何が起きているのかをグラフィカルに表現しています。
この2冊の刊行記念ということで、三中先生とお話しする機会を賜りました。よろしくお願いします。
三中信宏(以下、三中):よろしくお願いします。
何世紀前のことであっても、すぐ目の前にあるものとして考える
山本:三中先生は、学術全体を大きな分類で捉えた場合、どちらかというと理系、科学の領域がご専門といってよいでしょうか。
三中:一応私は表の仕事がありまして、実は午前中3時間、都道府県の農業試験場の研究員を相手に、統計学を教えてきたんですよ。また私は学部から農学部にいるということもありまして、そういう意味では理系ですね。ただ大学院では科学哲学にも跨る分野を専攻したので、その頃から文系ですか、と問われると、ちょっと怪しい。よく分からないですよ。
山本:「裏の顔」はいかがでしょう。
三中:別にイリーガルなことはしているわけではないんですけど (笑)、裏の仕事は科学哲学に絡むことがありまして、例えばこの本『THE BOOK OF TREES』は歴史学、あるいは中世思想史が絡んできます。
実はこの本、最初はどこかの翻訳のプロダクションに任せようとしたらしいのですが、とても訳せませんと突っかえされてきたそうで。当時、私はこの本が訳されることは聞いていたのですが、誰がこの本を訳すのかなと思っていたら、思いがけず私のところに話がやってきたので、訳したしだいです (笑)。
山本:三中先生のご著書をお読みの方はご存じのように、先生は「文化史」あるいは「思想史」とでも言わなければ収まりきらないような、文化の諸領域やその歴史にもたいへん造詣が深くていらっしゃいます。例えば、『系統樹思考の世界』(講談社現代新書、2006年)や『分類思考の世界』(講談社現代新書、2009年)は、生物だけでなく文化史にまで広く話が及んでいます。
これは褒め言葉として申し上げるのですが、単純に理系か文系かという、分かりやすい分類、二分法では割り切れない鵺のような存在なのですね。
三中:ありがとうございます。
山本:それだけに、今日の話も脱領域的にあちこち行ったり来たりしながら進められたらと思います。最初の話題として、自然科学をとっかかりにしてみます。
これはステレオタイプかもしれませんが、議論のためにこんなふうに問うてみましょう。科学の諸領域では、常に最新の知識、現在妥当とみなされている知識に注力して、過去がどうであったか、これまでの経緯や歴史がどうであったかについては、どちらかというと脇に置く傾向があると思います。
そうした科学の営みにおいて、過去や歴史はどのような意味や意義を持っているでしょうか。
三中:今の理系の研究者、あるいは大学院生から見ると、自分がやっている研究や学問の歴史って、学ぶ機会が全然ないんですね。理系なら理系の自分の研究分野だけの最先端をやる、要するに、プロジェクトを組むなどして、最先端の研究をやっていれば、当然成果が得られます。そのため自分がやっていることがそもそもなんなのか、もともとどのような動機があったのか、そんなことをあまり考えなくてもやっていけるんですね。
私、大学院の頃からの生物分類学に関心がありまして。分類学という領域では、研究のタイムスパンが他の自然科学と全然違うんです。
例えば分子生物学の研究分野でしたら、5年も経てばもう古い論文になってしまうんですね。しかしわれわれの領域では、1世紀、2世紀前の論文はごくあたり前で、未だ現役の文献なんです。
山本:まだ現役なのですね。
三中:そうです。例えばカール・フォン・リンネという近代分類学の基盤を確立した18世紀の植物学者の文献は、すでに300年近く前のものですが、文献としてはりっぱに現役です (笑)。
要するに自然科学でも、分野によってタイムスパンが全然違うということです。現代の生命科学では、過去2、3年をベースに先に進みますけれども、我々では過去2、3世紀という感じでいくんです。
そうすると、分類学や体系学の分野では、昔どんな研究がなされたかについて、見たくなくても見ざるを得ない。要するに研究の歴史を考えたくなくても、考えざるを得ない。リンネが何を考えてこのような分類をしたのか、それは今の分類と直結していますから、結局何世紀前のことであっても、すぐ目の前にあるものとして考えていますね。
山本:なるほど、研究分野によっては数世紀というスパンで考えるわけですね。
三中:そうですね。おそらく、それは研究分野によってもずいぶん違うと思います。
山本:生命科学のように回転が早くて、どんどん更新されていく分野にとっては、歴史はあまり関係ないと考えられますか。
三中:いや、例えばこれこれの遺伝子の機能について調べるなんていうのは、歴史を知らなくてもできるんですね。それこそマウスがあり、あるいは人間がいれば、ちゃんと研究ができる。
しかし、そもそもその研究にどのようなルーツがあるのかと考えだすと、(歴史が)必要になります。要するに過去こういう方向で研究の方向性が決まったから、今があるんだということになるはずです。しかし、あまりみなさん考えていませんね。
結局、多くの科学者にとっては、科学史や科学哲学というのはなくてもやっていけるところではあるのですが、私の関わる領域だと、それがないと困るんです。つまり、理系といっても、その中にはかなりのダイバーシティ(多様性)があると私は思っていて、必ずしも単一ではないのではないと考えています。
山本:分野によって程度の差はあるにせよ、過去の試みやこれまでの経緯は、結局のところ現在の条件でもあるわけですから、少なくとも無視はし得ないわけですね。
三中:そうだと思います。
ツリー(構造)で分類することが基本中の基本
山本:この『THE BOOK OF TREES』にも登場しますが、例えば古くは『聖書』や神話では、「誰それの子が誰それで、誰それの子が誰それ……」といった、系譜が描かれます。これは樹木(ツリー)というメタファによって物事の経緯を、根っこから葉の先まで繋がった形で捉えようという試みです。あるいは、デカルトは学問の分類をやはり樹木になぞらえて捉えるなど(この発想自体はデカルトの発案ではなく、ライムンドゥス・ルルスなどの先行例があったわけですが)、ツリーは色々な領域で活用されてきました。
リマさんの本には、欧米でつくられてきたものを中心とした系統樹の図像が多く集められています。こうしたヴィジュアライゼーションは、ヨーロッパ以外の地域においては、どうなのでしょうか。
三中:そうですね。この本を訳す前に、カラー図版で系統樹に関する本(『系統樹曼荼羅―チェイン・ツリー・ネットワーク』NTT出版、2012年)を出したんですけれども、ほとんど掲載している内容も同じだし、見てるものも同じだなって思いましたね。知人には「マニュエル・リマってのは三中さんのエイリアスですか」と言われて (笑)。
山本:『系統樹曼荼羅』はヴィジュアル満載ですばらしく刺激的な本でした。私も一瞬、リマさんは、三中先生の筆名ではないかと疑わなかったわけではありません(笑)。それにしても、エイリアスとはうまいこと言いますね!
三中:もちろんそうじゃないんだけれども、本当に、訳してみても同じものを見てるなという気がしたのは、ひとつには、例えば西洋では系統樹(ツリー)という図像の起源は旧約聖書にでてくる、アダムの子がシェト、シェトの子がエノシュと続いていく家系図がツリーなんですね。ですからその意味でいうと、系統樹の大元は宗教的なものがあったと、そして、これはキリスト教だけではないです。
コーラン、イスラームでも、いわゆるアラビア文字でカリグラフィ的に書かれた家系図というのがありますし、誰の子が誰で、というのはおそらく西洋、あるいはイスラームの世界ではものすごく重要だったのではないかと思います。特に王族貴族だと、誰の子が誰というのは王位継承権に繋がる、実利的な面があります。
本物の家系図を見てみると、この親からこの子へのこの親子関係は、どこそこの文章に書かれているという証拠が、全部の枝ごとについていて、かなりしっかりとした実証的なものなんですね。系統樹、家系図というのは、日本みたいに、辿ってみればルーツは源氏にたどり着くみたいな (笑)、いいかげんなものではないんですよ。
たとえ枝葉がわーと広がっていても、それを枝ごとに束ねて、最後は一本のルーツですよと見せるのは、分かりやすいヒエラルキー構造をつくるという意味で、すごく説得力があるんです。
では東アジアや日本はどうかというと、ツリーは、陰陽思想、アリストテレス的な二分木で天地万物を二分木的に分けるといった形式で、中国から渡ってきたものとして確かにあります。
ただ、ひとつ面倒なのは、日本人ってネットワークが大好きなんですよ(笑)。
山本:(笑)。
三中:ツリーは分岐するだけでしょ。しかしネットワークは、分かれたものが網の目のようにもう一回より集まる。
例として、南方熊楠の南方曼荼羅があります。これは、線が入りまじったようなもので世界を説明しています。また、東大の理学部に植物学者の早田文藏がいましたが、彼もネットワークを一回ドンと出して、これで生物の遺伝あるいは多様性を説明する「動的分類学」を提唱しました。その早田文藏の弟子の、北大の出版会から本を出した中尾佐助も同様です。
このように、いわゆる階層的ではないネットワーク型の分類が、日本ではよく広まっていますね。それの大元は何かというと、密教、仏教です。ツリーにしろネットワークにしろ、そういうところから発しているので、辿りだすとキリがない、文化的にもキリがないし、歴史的にもエラいことになってしまいますね。
山本:ほとんど世界文化史全般を渡り歩かなければならないわけですね。しかし、日本の人のネットワーク好きというのは面白い話ですね。
三中:そうですね。ただ、ネットワークというものに魅力を感じられるかたもいらっしゃるかもしれませんが、われわれ人間は、基本的にネットワークを読み解くリテラシーを持っていないんですね。
山本:そうなんですよね。
三中:直線的に分岐して繋がっているツリーは、階層なので、すぐ読めるんです。ところがネットワークは、非階層なので読めないんですね。
ネットワーク的に分類することは、理念的には面白いですが、実用のときには全然ダメです。例えば図書分類をネットワークにしてはダメで、全然分かりません。必ず階層的にツリーで分類することが基本中の基本だと思います。
構成:佐々木未来也(Concent, inc.)
(2015年11月11日、「第17回図書館総合展」B&Bブースにて)
COMMENTSこの記事に対するコメント