「ぼくはここ数年で、写真の価値やおもしろさを伝えるには作品をつくっているだけでは足りないと思うようになりました」。写真家の高橋宗正さんは、東日本大震災の津波で流された写真を洗浄し持ち主に返すプロジェクトに携わったことをきっかけに、こう思うようになったそうです。その先にある一つの試みとして、今年の5月には「ほぼ日刊イトイ新聞」で写真家たちをゲストに呼んでの対談連載「写真はもっとおもしろがれる!」を展開。ブックコーディネイターの内沼晋太郎は、震災後から続くこれらの“写真を撮っていない”一連の活動も含めて、高橋さんのことを「写真家」だと言います。
SNSにも写真付きの投稿が溢れ、誰にとっても撮ることが日常になったいま、写真家と非写真家の境目を決めるものは何なのでしょうか? そして「写真集」というメディアの存在意義とは? 「写真」と「写真集」をめぐる、2015年現在の対話の記録です。
※本記事は、本屋B&B(東京・下北沢)で2015年6月13日に行われたイベント「写真家と非写真家のあいだ」を採録したものです
「経験の記録」としての写真集『津波、写真、それから』
内沼晋太郎(以下、内沼):先日、高橋宗正くんの3冊目の写真集『石をつむ』(VERO)が発売になりました。今日はその宗正くんと「写真家と非写真家のあいだ」というテーマでトークをしていきたいと思います。
僕と宗正くんのB&Bでのイベントは2回目で、1回目は去年、宗正くんの『津波、写真、それから』(赤々舎)という写真集が出たときのことでした。僕と宗正くんが出会ったのは、さらにその前、1冊目の写真集『スカイフィッシュ』(赤々舎)が出た2010年ごろ。年齢も同じということもあって、それ以来よく個人的にも話すんですが、彼の写真の話はすごくおもしろくて。
高橋宗正(以下、高橋):それ、出会ったころから言ってるよね(笑)。
初めて会ったとき内沼くんはすでに「numabooks」として活動していて、一方僕は駆け出しの写真家。写真集を初めて作って、これからどうやっていこう、という時期だったんですよ。内沼くんはちゃんと個人で活動できていて、同い年なのにしっかりしているな、という印象でしたね。
そんなころから2人で写真についてよく話をしていて、いつも僕の話がおもしろいって言ってくれるんだけど、どのあたりがおもしろかったの。あんまりしっかり聞いたことないよね。
内沼:どのへんが、というのは難しいね。でも、たとえば最初から宗正くんは「巨匠」って名乗っていたよね(笑)。当時のブログのタイトルが「巨匠への道」で。駆け出しに見えるけど最初から“巨匠への道”を見据えていて、写真について考えた末にいまがあって、さらに考えながらその道を歩いているところ、というか。
高橋:それは逆なんです。カメラマンとしてデビューしたくらいのときから、とある仕事場でのあだ名が「巨匠」だったんです。なんだか偉そうにいろいろ喋るから、と。
内沼:そこから「巨匠」だったんだ。
高橋:それでブログにもそういうタイトルをつけたりして。やるからには巨匠を目指そうという気持ちにもなって。じゃあそもそも「巨匠」って誰なんだとか、どうやったら「巨匠」になれるのかとか、考え始めたんですよ。
内沼:そういう意味ではずっと、行動と考えることの順番が逆だよね。
『津波、写真、それから』もまさにそうだよね。津波に被災した写真を持ち主に戻す「思い出サルベージ」 *1 や、「LOST&FOUND PROJECT」 *2 の記録でもあると思うんだけど、その間、ほとんど被災地に入り浸っていたよね。
高橋:毎週末、東北に行っていたね。
内沼:LOST&FOUND PROJECTとして、その写真を世界に展示して周るという活動を始めてからはほとんどその展示の準備で出ずっぱりになっていて。その時期は本当に「写真を撮る」という仕事をしていなかったよね。でも3年くらいその活動をした結果、「写真集が出た」んですよ。それが『津波、写真、それから』。これ、表紙には「高橋宗正」って書いてあるけど、中心になっているのは高橋宗正が撮った写真ではなくて。
高橋:僕が撮ったのは、活動の記録写真だけだね。だからこれは「僕の経験の記録」ですね。
*1│思い出サルベージ:宮城県山元町で津波で被災した写真を洗浄、複写し、持ち主に戻す活動。約75万枚を回収。現在も返却を続けている。http://jsis-bjk.cocolog-nifty.com/blog/jsisbjk/index.html
*2│LOST&FOUND PROJECT:「思い出サルベージ」で回収された写真で、ダメージがひどく持ち主も判別できない写真を世界各国で展示し寄付金を集めるプロジェクト。「思い出サルベージ」とともにその経緯をまとめた写真集が『津波、写真、それから』(赤々舎、2014年)。http://lostandfound311.jp/ja/
「写真を撮っていない期間」でも、宗正くんは写真家だった
内沼:そこで今日のイベントタイトル「写真家と非写真家のあいだ」という話になるんだけど、僕はその「写真を撮っていない期間」も、宗正くんは写真家だったという気がしていて。被災した写真を洗ってそれを展示する――それは写真家の仕事でない、非写真家だ、と言う人もいると思うけど、その過程で「写真とは何か」ということを本人はずっと考えていたわけじゃないですか。
高橋:とにかく考えましたね。
内沼:その立場から写真について考えた人は他にいないと思う。そういう意味で、僕はその間も宗正くんは写真家だった、と思うんですよ。
高橋:そう言ってくれるけど、自分ではそうは思ってないんだよね。でも、そのときに「考えた」のは確かで。
被災した写真って、どこの家庭にでもあるような、旅行とか結婚式とか飲み会の写真で、「作品」としては見ないじゃないですか。僕もそれまでそういう写真にあまり価値を感じてなかったわけですよ。プロとしていいものを作るのがカメラマンであり写真家である、という考えがあった。でもそれが津波でひっくり返ったんです。家もないし、物もない。それ以上に友達や家族を失った。そんな人が「写真を探す」っていうのはどういうことなんだろう、って。それまでは技術的に優れているものが写真だと思っていたんだけど、みんなが普段撮っているような写真が、もしかしたら一番大事なんじゃないかと思うようになったんです。
内沼:写真家が撮った写真よりも、技術は拙いけれど、飲み会や旅行の様子を写した写真の方が、みんなにとっては戻ってきてほしいものなんだ、と。
高橋:その気持ちは写真だからこそだなって。写真はそのときに撮ったものしかないし、撮り直すことができない。家や車よりもそういうものをみんなが探していて、僕はそれを間近で手伝っている。でも反面、「撮るのが写真家だろう」という気持ちもあって。だからそのときは本当に「どうしよう」って。写真家として写真を撮らない時期が続いていたこともあったし、なにより、みんなが探している写真以上に「強さ」を持った写真はないんですよ。これから自分が何かを撮るときに、そんな「強さ」は出せないよねって。そういういままでにない価値観に触れて、プロジェクトを通じてその「強い写真」とずっと生活していく中で、俺は撮れなくなるんじゃないか、ということはすごく考えてた。「この(撮らない)期間も写真家である」という思いより、「このまま俺、消えるんじゃないかな」っていう気持ちの方が強かった。
内沼:でもその「消える」っていうのは、写真の仕事がなくなるっていう意味じゃないよね。
高橋:うん、ご飯を食べるための、仕事としての写真は技術的に撮れるから。でも作品として何かを発表するときは、常に何かと比べるわけじゃないですか。「強さ」のある写真と自分の写真を比べて、「これ以上のものは作れない」と思いつつも、それを超えて作れるものがないか、考える。
でもそのときは、その「強さ」を超えて何かを発表できるという気持ちにはなれなくて。
[2/7:「写真と思い出はメディアとして直結していて、だから『強い』ものになる。」に続きます]
構成:松井祐輔
(2015年6月13日、本屋B&Bにて)
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