某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。新刊のPRイベント中に誤りが発覚!? 今回は、ノンフィクション作品で起こったファクト・チェック問題の経緯をレポートします。
第28回 ナオミ・ウルフとファクト・チェック
▼ナオミ・ウルフの悪夢
ナオミ・ウルフといえば、フェミニズムの論客であり、有名な著書としては、『美の陰謀』(曽田和子訳/阪急コミュニケーションズ)や『ヴァギナ』(桃井緑美子訳/青土社)があります。
そんな彼女の新作『Outrages』で事件が起こったのは、今年2019年の5月のこと。
本書は、近代英国における同性愛者への迫害を扱っていて、彼女がオクスフォード大学のトリニティ・カレッジで博士号を取った論文をもとにしているといいます。
さて、彼女はこの出版にあわせてBBCのラジオに出演しました。
19世紀前半に同性愛で処刑されることはなくなったと思われているが、じつは19世紀をとおして何十人もが死刑にされている、という話をし、オールド・ベイリー(英国の刑事裁判所)の記録から、1859年に14歳の少年が同性愛行為で極刑になっている、という例をあげます。
ところが、聞き手の歴史学者は、それは事実ではないようだ、と疑念を呈します。この少年は釈放されているというのです。
記録では「death recorded」となっていて、これは裁判官が被告を赦免したことを意味するのだそうですが、ナオミ・ウルフは「死刑」のことだと誤解していたのです。
たしかに字面を見るとまちがってしまいそうですが、歴史的な用語であり、専門家にとっては、これは基本的な誤りのようです。
ナオミ・ウルフは「それはとても重要な問題なので、調べてみないと」と答えていますが、誤った解釈にもとづいて議論を構築していたことが明らかになってしまったのです。
本の宣伝のために出演したラジオの放送で、そのミスを指摘されるとは、たしかに悪夢のような出来事です。
彼女は、これまでの著書でもさまざまな誤りを犯していると指摘されています。
たとえば、毎年15万人が拒食症で命を落としていると書いたり(じっさいにはこれは拒食症者の数で、死者は年間約500人)、ドーパミンの作用を科学的な論拠をこえて過大評価したりしていると批判を受けています。
あるいはSNS上では、米政府が軍による支配を正当化するためにエボラ・ウィルスを国内に持ちこもうとしたとか、過激派組織ISが公開した英米人殺害の動画はフェイクだとかいった、根拠があやしい陰謀論を主張してもいるようです。
▼刊行はどうなる?
さて、これは著者ばかりでなく、版元にとっても悪夢といえる事態です。
そこで出版社は、いち早く見解を発表しています。
英国の出版元であるヴィラーゴ・プレスは、「われわれは著者ナオミ・ウルフと、彼女がオクスフォードで博士号を取得するもととなった本書の議論を支持する。著者および米国の版元とともに、必要な修正を行なう」とアナウンスしました。
いっぽう米国では、英国から1ヵ月遅れて出版される予定になっていたのですが、米国版の出版社ホートン・ミフリン・ハーコートも声明を出します。
出版物ごとに専門の編集者、原稿整理、校正者を用意して、徹底的なリサーチとファクト・チェックを行なっており、著者が書いた内容を信頼している、という内容です。「今回は不幸な誤りだが、本書全体の議論は有効だと信じており、修正について著者と話しあっているところだ」
しかしながら、6月の出版予定日が近づくと、一転して発売の延期が発表されました。
「ナオミ・ウルフとともに本書の修正に取り組むうち、新たな問題が生じてきたため、調査にさらに時間を要することとなった。出版を延期するとともに、小売ルートへ出たすべての書籍を回収し、問題を解決したい」と、ホートン・ミフリン・ハーコートは語っています。
指摘されたミスだけにとどまらず、他にも問題が出てきたため、手直しに相当な時間が必要になった、ということのようです。
くわえて、すでに流通ルートにのっていた商品を回収する旨の説明もありますから、印刷・製本を終えて出荷されていたものもあったいうことなのでしょう。だとすると、出版社には相当な損害が生じていることがうかがえます。
しかし、ナオミ・ウルフは、この決定に強く反発。
そして、本来であれば、新刊の出版にあわせて行なわれるはずだったブック・プロモーションの場に登場します。
NYの有名なストランド書店で、彼女は予定どおり、本書についてのイヴェントに参加しました。
集まった客は比較的少なかったようですが、ここにいるのはほんとうの友人たちだ、と感激した様子で、旧友でもある作家ウィル・シュワルビのインタビュウを受ける形で、本書について話をしています。
彼女は、「death recorded」に関する自分の誤読を認めたうえで、それでも、その定義には疑念を持つ人もいると反論します。
また、誤りはわずかであるにもかかわらず報道が大きすぎると批判し、自分の論には歴史学者の裏づけもあると説明しています。
大筋では自著を擁護しながら、本書のテーマである同性愛者の自由を強調したとのこと。
この企画は聴衆にも好評だったようです(そもそも集まったのが彼女のファンだという面もあるでしょうが)。
ちなみに、このイヴェントは、もともとはホートン・ミフリン・ハーコート版のプロモーションのはずでしたが、それが出版されていないため、ストランド書店では、英国版をわざわざ取り寄せて販売したそうです。
▼ファクト・チェック問題
ノンフィクションの事実関係が問題になる例は、じつはしばしば起きています。
重大な誤りをふくんだ著書としてNYタイムズがあげているのは、ナオミ・ウルフはもちろん、トランプ政権を批判したマイケル・ウォルフや、同紙の編集長だったジル・エイブラムスンなどのジャーナリストの新刊をはじめ、ジャレド・ダイアモンドやマルコム・グラッドウェルといった人気作家の作品まで、多様です。
なぜこのようなミスが続発するのでしょう。
記事によると、確実な裏づけを取るといった詳細なファクト・チェックには何万ドル単位のコストがかかり、これは、そこそこの作家に支払う契約前払金と同等であり、経済的に困難だというのです。
じっさい、大手出版社でも、専門のファクト・チェッカーを使う編集者は、ほんのわずかだそうです。
出版社グローヴ・アトランティックの社長は、現状は理想的でないと認め、「すべての本にファクト・チェックをかけたいが、そうはいかないのが現実だ」と語っています。
彼も、自社が出版したゲイ・タリーズ『覗くモーテル 観察日誌』(白石朗訳/文藝春秋)で騒ぎに見舞われています。
最近はノンフィクションの売れ行きがよく、2014〜18年で売上は23%増だといいます(同時期のフィクションは10%減)。
ベストセラーも望めるため、出版社もこのジャンルに力を入れていますが、すべての作品のファクト・チェックはできないという状況は変わっていません。
となると、その責任は著作権者である著者に課せられます。
そこで、ファクト・チェックを自腹で頼む作家もいます。
FOXニュースの内幕を暴くノンフィクションを書いたガブリエル・シャーマンは、ファクト・チェックに2人を雇ったといいます。
「出版社の決まり文句は『著者を信頼している』だが、それでは不充分だ。ファクト・チェックは、保険証書のように不可欠なもので、重要性を出版社にもわかってほしい」とシャーマンはいいますが、実態はそうはなっていません。
彼の場合は、出版社から払われた契約前払金から、ファクト・チェッカーに10万ドルを払ったそうですから、これは相当な金額で、すべての著者がそうできるわけではないでしょう。
そこで、著者がファクト・チェックに支払う手当てを提供する出版社も出てきているそうです。
現代では、ずさんな記述はSNSであっという間に拡散されてしまい、そうなれば当然、売れ行きにも支障をきたします。
さらに極端な場合は、回収・絶版という最悪の事態も招きかねません。
その損害は、出版社がかぶることになるのです。
日本から見ると、出版社がファクト・チェックをしない、というのは驚きです。校閲は、出版活動の重要な要素だからです。
とはいえ、歴史書で事実関係の誤認や出典が問題になることは、日本でも起きていますね。
ついでにいいそえれば、専門家がどれだけチェックをしても、ミスは残ってしまうものだということは肝に銘じておく必要があるでしょう。校閲に完全はないのです。
▼ナオミ・ウルフの結末
ところで、『Outrages』はどうなったのでしょうか。
10月になって、ホートン・ミフリン・ハーコートとナオミ・ウルフはそれぞれ、「相互に、友好的に関係をわかつことになった」と発表しました。
つまり、『Outrages』版の出版は、4ヵ月を経て、キャンセルされたわけです。
ナオミ・ウルフは、米版もやがては世に出ることもあるだろうといい、現在は英版のペイパーバック化にむけた作業でいそがしいと語っています。
※ガブリエル・シャーマンがファクトチェッカーに支払った金額について、数字に謝りがございましたので訂正いたしました。申し訳ございません(編集部:2019年12月5日更新)
[斜めから見た海外出版トピックス:第28回 了]
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