某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。今回は、大ベストセラーの続編で起きた誤配騒動から、出版社と書店の関係を考えます。
第27回 発売日を守れ!
▼この秋最大の話題作
2019年秋の英米の出版界で、最大の注目を集めた新作は、マーガレット・アトウッド『The Testaments』でしょう。
あの名作『侍女の物語』(斉藤英治訳)の待望の続編です。前作刊行が1985年ですから、じつに34年ぶりの新作。
しかも、『侍女の物語』をドラマ化した『ハンドメイズ・テイル』は、Huluですでに第3シーズンに入り、社会現象というほどの人気を誇っています。なにしろ、さまざまな抗議運動に、この侍女のコスチュームが用いられるのですから。
話題性だけでなく、アトウッドはノーベル文学賞の予想にもあがってくる作家ですから、内容的にも期待は高く、出版前からブッカー賞候補になるというオマケまでつきました。
▼原稿へのサイバー攻撃
こんな作品ですから、すこしでも早く読みたいと思うのは人情ですが、どうやらそれは読書家にかぎらなかった模様。
なんと、出版前の原稿を狙ったサイバー戦が展開していたというのです。
アトウッド自身や出版社に対して、フィッシング攻撃がかけられていたそうです。
「一般企業が強盗行為をしているようだった」といいますから、けっこう大がかりだったのでしょう。
出版社と著者は、暗号やパスワードを駆使して防衛したそうですが、もしサイバー攻撃が成功していたらどんなことになっていたか、とアトウッドは語っています。
話題作であればあるほど、出版社は事前のセキュリティに神経を尖らせます。
そういえば、かつては《ハリー・ポッター》の新作が出るたびに、先に内容をつかもうとする人びとと、それを阻止しようとする版元との戦いがあったものです。
『死の秘宝』の際は、ページを撮影してアップされるといった騒ぎもありました。
英米の出版界では、プロモーションのためもあって、事前に簡易製本した見本を配るのがふつうです。
今回のアトウッド作品の場合は、盗まれてもそれとはわからないように、わざわざべつなタイトルがつけられていたそうですし、先にあげたブッカー賞の審査委員たちは、守秘義務の契約書にサインさせられたうえ、読んだ原稿も透かし入りで、夜間は鍵がかかる引き出しに保管されたとのこと。
ところが、ここまで厳重に管理された新作に、予想外の事態が起こりました。
米アマゾンが、発売日前に本を出荷してしまったのです。
▼アマゾンのフライング
公式な発売日は9月10日だったのですが、その1週間前の9月3日、アマゾンから本が届いたという人が現われはじめました。
戸惑う人、大喜びの人、さまざまだったようですが、さっそく版元のペンギン・ランダムハウスが声明を発表します。
それによると、「ひじょうに小さな部数が、流通業者の誤りによって配達されてしまったが、すでに改善された」とのことで、本を待っている読者に謝罪し、発売日は9月10日に変わりない旨、念を押しています。
セキュリティを強めていた本でこんなことが起きてしまったのは皮肉ですが、独立系書店にとっては、笑いごとですませられるような話ではなかったのです。
それでなくても、流通に長けたアマゾンと戦わなくてはならない街場の書店にとって、発売日のようなルールを破られては、たまったものではないでしょう。
しかも、独立系書店は、出版社側からきびしく拘束されていることもわかりました。
発売日を守るという「とても厳格で、明確に記された宣誓証書」にサインさせられていたのです。
誓約書を出した以上、発売日を破るわけにはいかないのですが、じつはやろうと思ってもできない事情もありました。
発売の1週間前の段階で、独立系書店には、まだ商品が入荷していなかったのです。
そもそも本が届いていない状態では、発売日破りもなにもないでしょう。
それなのにアマゾンは、すでに在庫を持っていて、客に発送してしまったというのですから、書店が怒るのももっともな話です。
もし、発売日のことなど知らない客が、アマゾンでこの本を入手した人がいるのをネットで見て、自分もほしいと思って店に来たとしても、入荷すらしていないといわれてしまうのです。
「顧客は、アマゾンで売っている本が、わたしたちの店では買えないのを知るわけです。そしたら、もう次は来てくれないかもしれない」
▼アマゾンにペナルティを科せられるか
アマゾンも、コメントを出します。
「技術的なエラーによって、少数の顧客にあやまって本を送ってしまった」として、「われわれは、このエラーを謝罪する。われわれは、著者とエージェントと出版社の関係に重きを置いており、今回の件で彼らおよび仲間の書店に対し引き起こした困難を遺憾に思う」と、謝罪の言葉を述べています。
この英ガーディアンの記事によると、アマゾンがあやまって発送したのは800部あまりで、米国内にかぎられるとのことです(すごい取材力です)。
本書のような期待の新刊としては、アマゾンの規模なら800部はたしかに多くはないのかもしれません。
しかし、かなりの規模の書店チェーンとして考えても、1冊の本を800部売るのはなかなかたいへんです。版元やアマゾンが強調するほど少ない数字とはいえないのではないでしょうか。
さて、ここで、出版社はアマゾンに罰を科せられるのか、という問題が出てきます。
さきほど、独立系書店は、発売日を守るよう誓約書を取らされているという話がありました。
もしそれを破れば、今後は本を仕入れさせてもらえなくなるのだそうです。
五指に入る大出版社であるペンギン・ランダムハウスの本を取り扱えないとなれば、書店としては死活問題です。
1冊でも発売日を破って売ってしまったら、それほど強いペナルティが科せられるわけですが、では、800冊も出荷してしまったアマゾンには、どれだけの罰を科せばいいのでしょうか。
答えは、明らかに思えます。
どれだけ大きな出版社であっても、アマゾンに自社の商品を流通させないことなど、とうてい考えられないでしょう。
独立系書店と出版社の関係とは、立場が完全に逆転しています。
現在では、アマゾンの在庫が切れて顧客への発送が遅れることすら、出版社にとっては痛手になります。
そのような状況で、アマゾンにペナルティを科すことは非現実的です。
これもまた、巨大になりすぎた流通業者がもたらした現実といえるでしょう。
ただ、この問題については、書店協会が興味深い動きを見せています。
協会はここ数週間、法務省および連邦取引委員会とともに、アマゾンの独占状態が、出版や小売業全般におよぼす悪影響について協議を進めてきているのだそうです。
その場で、この件も重要な問題として取りあげられるだろう、としています。
現政権下で、いったいどのような展開になるかはまったくわかりませんが、アマゾン問題に風穴をあけることができるのか、注目ではあります。
▼そして、新刊発売
発売前にすったもんだがあったアトウッドの『The Testaments』ですが、予定どおり9月10日に発売になりました。
しかし、アトウッドにとっては悲しいこともありました。
出版直後に、パートナーを亡くしたのです。
このため、アトウッドは予定していたプロモーション活動をキャンセルもしたようです。
とはいえ、英国では発売の週に10万部を突破、米国でも12万5000部が売れ、ベストセラーとなっています。
【追記】
アトウッドの『The Testaments』は、その後ブッカー賞に選ばれましたが、2作同時受賞であったことや、審査員が理由としてアトウッドのキャリアへの褒賞をにおわす発言をしたことから、これまた物議を醸しています。
[斜めから見た海外出版トピックス:第27回 了]
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