マイクロ・ディストリビューションの現在形
――映画『シリア・モナムール』配給宣伝
「テレザとサニー」インタビュー
取材・構成:小林英治
近年、シネコンによるスクリーン数の増加により劇場公開される本数自体は増える一方で、興行収入の上位にはアニメとごく一部のハリウッド大作が占め、ミニシアター系の作品に観客が入らなくなったと言われて久しい。しかし、コンテンツとしての安心感と娯楽性ばかりが求められているようにみえる映画業界で、映画と世界の豊かさを我々観客に届けようと奮闘する新たな人たちも現れている。
2016年6月18日に公開されたドキュメンタリー映画『シリア・モナムール』を配給した「テレザとサニー」もその一つだ。本作は、アラブの春を受けて2011年にシリアで民衆が立ち上がった反政府デモをきっかけに起きた内戦の実態を、市民たちが撮影した数々のフッテージ映像によって伝えると同時に、亡命先のパリで祖国の状況を知ろうとする監督が彼の代わりとなって紛争地でカメラを回す一人の女性と交わす魂の会話が胸を打つ、痛ましくも美しい作品。これまでフリーランスの映画宣伝ユニットとして活動してきた大竹久美子さんと有田浩介さんの二人は、この作品を国内に紹介するために初めて自主配給に乗り出したという。会社組織でない個人が海外の権利元と直接交渉し、買い付けから宣伝、営業までを行う、今の時代だから可能になったマイクロ・ディストリビューションのかたち。作品との出会いから、自主配給にいたるまでの経緯と宣伝活動に込めた二人の熱い想いを聞いた。
完全にオフのつもりで行った山形で出合った衝撃
―――これまで映画の宣伝の仕事をされてきた「テレザとサニー」のお二人が、初めて自主配給されたドキュメンタリー映画『シリア・モナムール』が渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開されました。この作品との出合いは去年の山形国際ドキュメンタリー映画祭とうかがっていますが、事前にこの作品に対する評判などは聞いていたのでしょうか。
有田浩介(以下、有田):いや、情報はまったくなかったです。もともと僕が先に山形に入っていて、大竹さんはその2日後くらいに来たんですけど、待ち合わせするのにコンペティション部門の会場でするのが一番分かりやすいので、この時間のこの作品で待ち合わせしようって、合流したのがこの映画だったんです。だからこの映画を観たのは偶然でした。
―――そもそも映画祭へは自主配給をする作品を探しに行ったのでしょうか?
有田:そうじゃなくて、完全なオフのつもりだったんです。それまで年間12、3本くらい担当して、ずっと宣伝の仕事が忙しかったので、ちょっと一旦ここで骨休めして、ゆっくり映画を観てお酒を飲みながら語ろうよ、みたいな感じのバケーション気分で行ったら、これに出合ってしまったという。
―――そうだったんですか。それから配給に至るまでにはどういう経緯があったんでしょう。
有田:観た直後は、とにかくすごい映画だっていう衝撃が強かったです。いつも映画祭で映画を観て、個人のフェイスブックで「こういう映画を観たよ」って紹介したりするんですけど、この映画はそうやって消費して終わらせるものじゃないなと思ったんです。でも、「じゃあ何ができるんだろう?」って。山形国際ドキュメンタリー映画祭では、映画を観終わった後にみんなが集まる「香味庵」という居酒屋があって、そこでその日に観た映画について集まった人と情報交換するんですけど、僕らもそこへ行ってこの映画の感想を話してました。最初僕は、「中東情勢で一番混迷を極めているシリアのリアルな状況を観てしまった」という感じで、割とこの映画を社会的に捉えていたんですね。ところが、大竹さんがそこで「これはラブストーリーだ」って、すごく印象的なこと言ったんです。パリにいるオサーマ監督と、監督の代わりになって現地でカメラを回すシマヴの会話が、普遍的な愛を語っていると。それを聞いて何かピーン!ときて、社会派ドキュメンタリーということだけじゃなくて、もう少し別の視点でこの映画を捉えられるのだったら、この映画を日本で紹介してみたいと思うようになりました。
大竹久美子(以下、大竹):私は、自分がシリアの状況について知らなかったことのショックがまずは大きかった。それまでニュースとして流れてくることしか理解がないというか、それ以上の知識を得ようともしなかったし、普段、映画学校で学生たちに「あなたたちは世の中のこと知らない!」って言ってたくせに、自分が知らなかったことにショックでした。戦争のイメージって、それまでは教科書的というか、ニュースからのインプットがすごく強かったけど、よくよく考えたら、人々が住んでるところに爆弾が落ち、射殺されるっていうことはこういうことだ、という想像力が、自分の中になかったことのショックが大きかった。同時に、今まで映画を観てきた中において、何か自分の中に引っかかって気持ちがザワザワし、そこに磁石のように吸いつけられる映画との出合いって何本かあるんですが、この映画はそれに近しい、あるいはそれをも超えてくるみたいな感覚があったんですね。多分、シリアの内戦だけを追いかけた戦場ジャーナリストが撮るような映画であれば、私はそこまでにはならなかったと思います。それはそれで重要だとは思うけど、現地で撮られた映像を無尽蔵にただ見せるのとは違う見せ方をしていたところに惹かれたのと、さっき有田さんがラブストーリーと言ったような、相対的な愛というものに「触れた」っていう感じがして。観終わった瞬間のそのショックは、本当に今までの人生で観てきたものを軽く超えてきてしまって、「何を観たんだろう?」っていう感じで、ちょっと処理ができなかったですね。
「日本の配給会社がみんなこういうふうに感想を言ってくれればいいのに」
―――そこからすぐ配給しようという話になったんですか?
有田:僕らとは別に、イメージフォーラムの山下(宏洋)さんもこの映画を会場で観ていたんですよ。それで、ロビーでばったり会った後に一緒に香味庵に行ったんですけど、いろいろ話をする中で、僕はズバリ聞きました。「これを我々が配給したら、イメージフォーラムで上映できますか?」って。そしたら、「2人がやるんだったらそれはやりますよ」って言ってくれたのと、山下さんがこの映画のフランスの権利元を知っていて、「それなら紹介できるよ」って言ってくれたのもすごく大きかったですね。普通は、我々のような会社組織ではない個人と、海外の会社って契約したがらないものです。映画の契約って、契約期間自体が7~8年間とすごく長くて、最初の年は4回の報告とロイヤリティの支払いがあって、翌年以降もいろいろと義務があって、強い拘束力があるんですね。契約書も分厚いもので、やりたいと思ってもなかなか個人ではできないんだろうなってバイアスを持っていたんですけど、山下さんがそう言ってくれたので、まずは権利元のアドレスを教えてもらいました。
大竹:覚えてるのは、香味庵に行ってみんなで夜中まで飲んで、映画のことを考えながら過ごして、翌朝有田さんから「なんかあれ、俺、配給したい。できると思うんだけど、どう思う?」っていきなり言われたこと。話し方とか、声のトーンとか、今でもその時のことはすごく覚えてます。正直、自分の中ではそこまで考えてなかったんですけど、観た後の処理できない気持ちは引きずっていたので、有田さんにそう言われて、「もしかして配給することでもっと深くこの映画と関わることができるかもしれない」ってパッと思いました。もちろん権利代がどれくらいだろうとは思ったけど、今までの自分の人生ではなかった関係性でこの作品と関わっていきたいというのはすぐに思ったから、悩まずに「やろうよ」と答えました。
有田:それで権利元へメールを書くんだけど、そのメールの書き方もすごく悩みました。最初は僕たちが観た感想をブワーって書いて送ろうとしたんだけど、「ちょっと待てよ、こんな熱烈に『大好きです』って言っちゃうと、足元見られて権利料が上がっちゃうんじゃないか」って思って、1回保存しておいて(笑)、いわゆるアスキングメールっていう、「この映画は日本で権利が空いてますか?」「いくらですか?」みたいな事務的なメールを書きました。でも、逆にそれで話が長くなったり、こっちの意図が伝わらないのはあまりに不本意だから、やっぱり想いを綴った最初の文面で、ただ権利料に関しては上限を決めて、「それ以上だったら縁がなかったことにして追わない」と決めて長いメールを送ったら、すぐ返事があったんです。「そういうふうに言ってくれてすごく嬉しい。日本の配給会社がみんなこういうふうに、アスキングじゃなくて感想を言ってくれればいいのに。君たちは個人かも知れないけど、すごく信用できるよ」って。もちろんイメージフォーラムの紹介だからということもあったと思うけど、権利元との交渉はすごく上手くいきました。コンペで映画を観て、夜通し2人で話して、山下さんに権利元を紹介してもらって、メールを送るまで10時間くらい文面で悩んで、でも送ったら翌日には返事をもらって、すぐ決まりました。もちろん権利料に関してはその後も多少の交渉はあって、最終的に契約を結んだのは東京に戻ってからですけど、最初のメールのやりとりは山形で行いました。
大竹:帰りは車で一緒に東京に帰ってきたんですけど、車の中で、権利料がこれくらい、上映素材費がこれくらい、宣伝費がこれくらいでと、有田さんは運転しながら、私は一生懸命携帯にメモして、想定する金額を計算したのを覚えています。
配給するのに本当に必要な技術は、契約力、宣伝力、営業力の三つ
―――少し遡りますが、お二人が一緒に宣伝の仕事をする前の話を聞かせてください。有田さんはもともと音楽業界にいらしたんですよね?
有田:そうです。2社にわたりレコード会社に務めて宣伝の仕事をしていました。その2社目のレコード会社がある時期から映画の出資を始めたんですけど、現場のパブリシティは、今の我々みたいな立場の外部の人にお願いしていました。その後、残念なことに務めていた会社がつぶれてしまって。別の会社で会社員をやろうか迷っている時に、映画の宣伝ってすごくやりがいがあって面白そうだなという思いもあって、会社で関わっていたフリーランスの映画宣伝の人に相談したら、「じゃあ一緒にフリーランスで宣伝やろうよ」と誘われてこの業界に入ったんです。
大竹:私は大学を卒業してから1年くらい全然違う仕事をしていたんですけど、それが全然おもしろくなくて(笑)、たまたま募集していたある宣伝会社に転職して、そこに5年弱くらいいたのかな。その後に東京国際映画祭のスタッフを3年弱くらいやって、その後にユーロスペースに入って、13年くらい宣伝をやっていました。そこではミニシアターのいい時代を体験させてもらったんですけど、だんだん配給が厳しくなってきて、最後はほぼ一人で宣伝を6~7年間やっていました。それでユーロを辞めたのが2006年だから、フリーになって今年でちょうど10年ですね。
―――そんなお二人が一緒に組んで仕事をするようになったきっかけは?
有田:2014年に岩波ホールで公開したフィリップ・グレーニング監督の『大いなる沈黙へ』というドキュメンタリー映画です。DOTPLACEさんでも取材をしてもらいましたよね。
僕はちょうどその頃仕事がなくて、配給から作品を借りて逗子の自宅の近所にあるシネマアミーゴで上映会をやったりしていたら、配給会社の友人が来てくれて、「知人が今度ドキュメンタリーの配給をやるので宣伝の人を探してるんだけど、興味ない?」って誘ってくれたんです。それが『大いなる沈黙へ』で、最初の宣伝会議に行ったら大竹さんに会いました。
―――あの映画は単館上映ながらヒットしましたよね。
有田:おかけさまで大成功しました。大竹さんがさっきユーロ時代に一人で宣伝をやっていたと言いましたけど、僕はそういうのがすごく好きだったんです。僕が一番苦手なのは、3人くらいパブリシティがいて、「この人はチラシやパンフの作り物だけやる」「この人は女性誌」「この人はウェブとテレビだけ」っていう分業的なやり方。僕は能力あるフリーランスの人間が集まって、もっとフレキシブルに垣根を超えながら展開してくのが良い宣伝だとずっと思っていて、大竹さんもそういうスタイルだとわかったから、「また他に作品があったら一緒にやりたいです」という話をしていました。そしたら『大いなる沈黙へ』が大ヒットしてくれた。この業界は狭いというか、「あの2人が宣伝やったんだ」ということで、どんどん僕らに宣伝の依頼が来るようになったんです。そこにすごくやりがいを感じていたし、一生懸命預かった作品を宣伝していたんだけど、ちょうど山形映画祭に行く頃が忙しさのピークで、ヒーヒー言っている状態でした。だから山形へはリラックスしに行ったつもりだったんだけど、この映画と出合ったことで、僕はこれまでの仕事のやり方を変えたいと思いました。
―――それは自分たちで配給もしたいということですか?
有田:それまでにもうっすらと「いい作品であれば自分たちでも配給できるんじゃないか」と思っていました。僕は配給するのに本当に必要な技術は三つくらいだと思っていて、一つは海外の権利元と直接交渉する契約力。それから買った映画を宣伝する宣伝力。そしてそれを上映する営業力。この三つのスキルがある人間が集まったら、会社でなくても配給はできるはずなんです。それを僕たちは二人でできる。なおかつ、配給会社が作品を買って、まず最初に割かなきゃいけないのは宣伝マンを雇うお金なんですけど、我々の場合は自分たちで宣伝ができるから掛からないでしょ。もちろんお金は必要なんですけど、スキルはあると直感的に思いました。あと、僕はレコード会社時代に、当時流行っていたマイスペースで海外の無名なミュージシャンの良い音源を見つけて、権利を取得して日本でディストリビュートするという仕事もしていたので、契約に関しても多少の経験がありました。だから、二人の経験を活かせばマイクロ・ディストリビューターになれるなと。
宣伝する自分たちがまず言葉の力を信じること
―――大竹さんのスキルはやはり、長年この業界で培ってきた宣伝力ですね。
有田:僕が大竹さんをすごく良いと思うのは、まず宣伝力がすごく優れているということ。そして何より文章力ですね。映画の宣伝で重要なことの一つは、プレスブックを含めた映画を紹介する文章を作ることで、配給会社によっては外部のライターに任せたりもするんですけど、我々は全部自分たちでやります。彼女の文章の特徴は、何かを説明するために字数に追われて書いているんじゃなくて、映画をイメージしながら作品が持っている余白の部分を、呼吸をしながら書いてるさまが読み取れるところです。特にこの『シリア・モナムール』の原稿にはその良さがすごく出ていると思います。映画を買うという時点で、宣伝ツールを作るというところまで想像するわけですけど、大竹さんと一緒にやろうと思ったのは、これまでの仕事で大竹さんが素晴らしい文章を書くのを知っていたからです。
大竹:好きな映画の時は、何かが降りてきたように書ける時があるんですよ。でもそういう時でも、やっぱり配給会社から請け負った仕事だと手が入ってしまうことがある。でも今回は、そういうことを有田さんがよく分かってくれてるから、解放されながらやれたという点ですごく良かったです。他の配給会社さんからオーダーを受けての仕事だったら、特に「シノプシス――映画に寄り添って」の原稿(※パンフレットに掲載)は相当妄想が入った文章だから(笑)、「これは違うでしょう」ということになって、自分が言いたかったことも外されてしまったと思います。
有田:この映画で、オサーマがシマヴに「言葉は今でも力があると思うか?」って聞くと、シマヴが「言葉の力は死んだわ」って言うシーンがあるんです。それはそうですよね。何を叫んでも世界に伝わらない惨状の中にいる人からしたら、言葉なんか死んだと思うでしょう。あそこのやり取りがはすごく印象的でした。実は僕たちも宣伝の仕事をしながら、映画のチラシとかに載っている映画を説明する文章ってどこかつまらないなって思っている部分があって。それは自分たちの作る物も含めてです。でもこの映画は、「本気で自分たちの伝えたいことを文字にして書こうよ」と話しました。文字数やページ数が増えてもいいし、文字が小さいと読まれないって言うけど、読みたい人は読んでくれると信じたいし。そこは今回かなりアグレッシヴな気持ちで作りましたし、今まで関わった映画の中で最高に楽しかったですね。
大竹:実は、私たちが最初に手に入れた映画の資料は、パンフにも載せた「オサーマ・ムハマンド/書簡」という手記だけでした。海外のプレス向け資料は情報量が少ないんですね。資料としてあったのはこれだけで、まずそれを有田さんが訳すところから始めました。
有田:「オサーマはこんなこと言ってるよ」って。そこから何遍も映画を観て、「シノプシス――映画に寄り添って」という形で、ただ事実を書くだけじゃなくて、二人の会話が意図していることを想像しながら文章を作りました。そうやって一つできたら、「ちょっとこれだけだと概念的すぎるから、シリア情勢をめぐるタイムラインを作っていこう」とか「専門家に寄稿してもらおう」とか、今度はどんどん人とコミュニケーションを取って作っていきました。その中でいろんな人から感想をもらい、自分たちでは気づかなかった映画の見方を教えてもらいました。このプレス向け資料を作るのが宣伝として一番大切なことなんですけど、年間10何本も、ある種ルーティン的にこなしていかなきゃいけない中で、趣向を凝らせて深い思いで作るのはなかなか難しいんです。でも今回に関してはそれができたからとても満足してますし、観客の方にパンフレットもぜひじっくり読んでいただきたいです。
テレザとサニーの個人的なバックグラウンド
―――有田さんはアメリカで生まれ育ったと聞いていますが、どんな環境だったんでしょうか。
有田:テキサス州のヒューストンというところで生まれ育ちました。学校は地元の公立学校に通っていて、土曜日に地域に住んでいる日本人が集まる日本語学校で日本の授業を受けていました。日常的に、親とのコミュニケーションは日本語で、兄弟とは日本語に英語が混じるみたいな感じでしたね。僕の英語は、アメリカ人と喋ると「南部から来たの?」ってよく言われます。アメリカはステイト(州)によって全然違うんですけど、僕がいたところはテキサスの超コンサバティブなところで、僕の小学校でのあだ名は「TOJO」でした。日本人だから東条英機(笑)。それくらい、先進国でありながら人種差別的なところというか、要はアメリカの田舎文化みたいなところにいました。でもアメリカって基本的に多様性豊かだから、テキサスには日本人だけじゃなく中国人も韓国人も多いし、メキシコと国境を接しているからメキシカンもすごく多い。リオグランデ川を渡ってくる移民の人もたくさんいるし、そういう意味では宗教的にも人種的にも価値観も、すごく多様性豊かなところがテキサス州かもしれない。そういうのを嫌うコンサバティブが実際いるんだけど、彼らだけじゃないからね。基本的にはあらゆる多様性に対してすごく寛容なところで生まれ育ったと思います。
―――そういう環境で、戦争というものは身近な存在でしたか?
有田:僕が子どもの頃に湾岸戦争がありました。ブッシュのお父さんの時代なんですけど、イラクがクウェートに侵攻したということでアメリカがスカッドミサイルをイラクに打ちこんで戦争が起きた。その当時のテキサスにいた小学校4年生くらいの僕は、アメリカの戦争は世界の正義のためという教育を徹底的に受けていて、戦争は正義だと思っていました。毎週月曜日になると、学校の校庭のきれいな芝生に星条旗が置いてあって、生徒が家から持ってきた缶詰とかカップラーメンを星条旗に置いて、それを包んで「Our heart is yours」とメッセージを書いてイラクに派兵されている兵士に送るんです。朝一にみんなで国歌を歌いながらね。そういう教育を受けていたから、僕の幼少の頃の戦争のイメージは、アメリカが関わっているものはすべて正義でした。アメリカがいろんな国に行って政情を安定させていくのだと。
―――日本に戻ってくるのはいつですか?
有田:1996年に日本に帰国して、日本の高校に編入し、その後大検を経て大学を出ています。でも、そのアメリカの価値観は、9.11が起きた時もまったく変わらなくて、結局第2回目のイラク戦争が起きて初めて疑問を持ちました。9.11の報復ということと、イラクに大量破壊兵器があるというあの戦争の大義名分が成り立たなくなって、「今までの戦争って何だったんだろう?」って考え直すことがあって、価値観が変わったんです。もちろんアメリカが嫌いになったわけじゃないですけど、こと戦争に関しては見方が全然変わりました。そして、こういう仕事をしていて、いつか中東に関する映画に携わりたいという気持ちは、実はずっとどこかにありました。でも山形でこの映画の上映会場で待ち合わせすると決まった時は、正直嫌だなって思ったんです。いわゆるWARドキュメンタリーはいっぱいあるし、ただ辛くなるだけだから休暇中に観たくないなって、実は結構後ろ向きだったんです。でもこの映画は想像していたのとまったく違っていました。もちろん悲惨な映像がたくさんあって、しかも戦争というより、完全な自国民同士の殺し合いで、それがまた酷いですよね。でも戦争の現実を伝えるものだけじゃなく、やっぱり後半に出てくるオサーマとシマヴの会話が、平和を望む気持ちだったり戦争の辛さというすごく普遍的なものを、淡々と静かに語っている。あれが美しいと僕は思ったし、人間が大切にしなくちゃいけない根源的なことだと感じました。
大竹:私は、この映画の宣伝に関わっていろいろ話していく中でいろんな発見が日々あったんですけど、その発見の中で、多分私はどこかシマヴに自己投影していたところがあると思います。彼女は私にとって憧れの人なんですよね。戦争に対する怖さとか、体制に対する不満とか、人間を主体に考えずに経済効率だけを叫ぶ国のありようへの怒りみたいなものが、シマヴそのものに思えたんです。何がきっかけか覚えてないんですけど、小学校5年生の時に読書感想文で選んだのが『アンネの日記』だったし、それ以降、どこかしら自分の中で反体制と反戦という気持ちがあって、それが自分の中に根付いてるんです。シマヴはそれを形にしているし、彼女の勇気が羨ましいと思ったし、彼女が語ることや、特に子どもの学校を開くところに心奪われた。私は、社会の中で常に虐げられるのは子どもたちだということが、自分の中に重要な問題としてあって、彼女が学校という形でああいう伝え方をしていることや、文学に対する造詣の深さは私にとっての憧れであり、いつしか自分がまるでシマヴになったかのような気持ちでいる時がありました。それはこの映画とこういう関わり方をしたからなのかもしれないですけど、シリアの現実を伝えたいということもある中で、文学的なものとか、女性性とか、そういうものに個人的に引き込まれていったということがあります。
ミニシアター全盛の時代ならできなかった今の時代に合った配給
―――毎年映画の公開本数自体は増えていますが、1本当たりの入場者数は減ってきていて、かつてなら観客が入った良質な作品といわれる映画も興行的に苦戦しています。お二人には『シリア・モナムール』のような映画を配給することで映画業界の現状を少しでも変えたいという想いもあったのでしょうか?
大竹:かつてはもっとゴリゴリした、掴まれるような感覚のような映画があって、それを配給会社が買い付けて劇場でかけ、それにお客さんがついてくるといういい時代がありました。それから映画業界全体がどんどん疲弊していって、お客さんが入らないからと言ってミニシアター系の配給会社もそういうものをやらなくなって、ハッピーエンドの舌触りの良い作品ばかりやるようなところも出てきています。そうするとお客さんも育たないし、こういう作品を観る耐性もなくなるし、すごい悪循環ですよね。ミニシアターの良かった時代をまたやりたいとは思わないけど、少なくともその灯火が消えてしまうことに対しては、自分たちがやってきたことの結果であるがゆえに、腹が立ってしょうがないという気持ちはあります。
有田:でも、ミニシアターが絶頂の時だったら、個人がこういう映画を配給することってできなかったと思うんです。もちろん権利料ももっと高かっただろうし、劇場だってよくわからない人とやりたいとは思わなかっただろうし。そういう意味では、逆に今は時代的に良いというか、多様化してきているんじゃないですかね。面白いアイデアで配給をしたいっていう人がいたら、劇場もそれに対してすごく前向きだし、さっきも言ったように三つくらいのスキルがあれば個人でも配給ができると思うんですね。だから、僕らは今の時代に合った配給が今回できたんじゃないかなと自負しています。
大竹:そうですね。この映画は、私たちが配給をやっていなかったとしたら、今の日本で興行できるチャンスはなかなかない類いの映画だと思うんです。そう考えると、これまで二人でいろいろ宣伝をやってきたけど、最終的にこの映画をやるためにお互いの出会いがあったのかなと思える時もあるんです。私も有田さんと仕事を始めた時は、4年くらいいたアシスタントがちょうど辞めるタイミングで、これからどうしようかなと思っていた時で、たまたま一緒に仕事をやるようになったんですね。もちろんその間にいろんな映画との出会いがあったし、一緒じゃなかったらできない作品にも出合ってきたけど、いろんな作品の宣伝をやって、疲れたなってリフレッシュするためにたまたま行った山形で出合った映画にすごい衝撃を受けて、配給までするようになった。逆算すると、なんだか偶然のような偶然でないような様々な出会いを経て、今日の初日を迎えたというのは、とても感慨深いです。だからこそ、より多くの人にこの映画を観てほしいし、みんなが何かを持ち帰ってくれたら嬉しいです。
[映画『シリア・モナムール』配給宣伝「テレザとサニー」インタビュー 了]
(2016年6月18日、THE LOCAL COFFEE STANDにて)
『シリア・モナムール』
渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
http://www.syria-movie.com
監督・脚本:オサーマ・モハマンド、ウィアーム・シマヴ・ベデルカーン
宣伝配給:テレザとサニー
©2014 – LES FILMS D’ICI – PROACTION FILM
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