COLUMN

高橋宗正 それからの日記

高橋宗正 それからの日記
『津波、写真、それから』(赤々舎)より全文掲載 (5/5: おわりに)

高橋宗正_それからの日記

宮城県山元町で津波に被災した写真を持ち主に戻す「思い出サルベージプロジェクト」と、ダメージが酷く処分される運命にあった写真を世界各国で展示し寄付金を集める「LOST&FOUNDプロジェクト」。東日本大震災の後、この2つのプロジェクトに関わった写真家・高橋宗正さんが、写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)の中で綴った日記を、5回にわたり全文掲載していきます。
一度見失った「人が写真を撮る意味」を、一人の写真家が再び見出すまでの記録です。
協力:赤々舎

【以下からの続きです】
「それからの日記」1/5: 2011.3.11-2011.5.5
「それからの日記」2/5: 2011.5.5-2011.7.24
「それからの日記」3/5: 2011.7-2012.3.25
「それからの日記」4/5: 2012.4.2-2012.10.28

 

写真

 
写真についてずっと考えてきた。高校を卒業した後写真学校に入って勉強をしてきたし、今ではそれが仕事になっている。作品をつくって写真集も出版した。目の前にあるものを解釈し、調理して提出することが写真の能力だと考えていた。しかし、それは大きな悲劇を前に、何の役にも立たなかった。写真には何の価値もないように思えた。しかし本当にそうだったろうか。全てを失ったときにまで、人はそんなに価値のないものを求めるだろうか。他人の価値のないもののために、多くの人が膨大な単純作業を淡々と進めるだろうか。ではいったいそこにあった写真の価値とは何だ。震災から2年間、写真を洗い、複写し、返し続けてきた。そしてその写真の一部をいろんな人に見てもらうことで共有し、コミュニケーションを生み続けてきた。写真を瓦礫の中から集めた人、写真を探しに来た人、写真を持ち主に返そうとした人、写真の展示を見た人が感じたことには共通の意識があった。写真の価値とは記憶の価値に近いものだ。しかもそれはプライベートな写真の場合、いいときの記憶と結びついている。なぜなら人は楽しいとき、誰かと共有したいものと出会ったとき、忘れたくないものがあるときに写真を撮る。そしてアルバムには、人生のよかった記憶のダイジェストが残る。その価値は誰かを失うときに最も強くなる。ある日、人は死ぬ。もう話すことはできないし、ありがとうを言うことも喧嘩をすることも謝ることも何もできなくなる。それが寂しくて悲しくて、別れるのも忘れるのも嫌で、少しでも距離が離れるのを遅らせるために、人は何度も写真を見て思い出す。何度も何度も見ているうちに、やがてその不在に慣れ、ちゃんと別れられるようになっていく。そのとき写真は、急な別れの緩衝材になる。ぼくらは別れるのが苦手だ。だからいろんなものを使ってそれを先延ばしにする。写真というものは、そこでとても有効にその力を発揮する。また、誰かに見せるために撮られた写真は、撮影者が伝えたいと考えるもののために、その記憶の一部を共有する。たとえば、ぼくが役に立たないと感じた大震災の写真たちは、直接誰かの助けになることはなくても、数が多かっただけに様々な人のところに届いた。基本的に、写真にはその光景の前後やフレームの外側は写ることがないから、写真を見た人の経験と想像力に補完されて、そこに写る事実を形成する。その事実の大きさは、人を行動させる動機になり、食料や燃料を運ぶ人や、瓦礫を片付ける人や、写真を洗う人など多くの協力を生んだ。今になって思えば大震災をいち早く撮影した撮影者の思いは、しっかりと届いていたのかもしれないと思う。地震が起きたときは、ぼくが感情的になり役に立たないと決めつけただけだった。というよりも、写真が記憶に近いものならば、それを見せることは記憶を話すことに近いものであって、そもそも最初から直接役に立つことはない。けれど、そこに説得力がちゃんとあるならば、その思いは誰かを動かす力になれる。写真は真実を写しはしないし、完全な客観性をもつこともないけれど、撮影した人の思いを記憶して運ぶ。それは写真の基本的な機能だと思う。今はもう、写真が役に立たないなんてことは思わなくなった。
 
 

おわりに

 
長々と写真について書いてきたけれど、ぼくが写真にこんなにも固執する理由を簡単に説明しておこうかと思います。ぼくの父親は2002年の3月に自殺しています。場所は職場の物置みたいなところでした。連絡をもらい、ぼくは前日に父が死んだ場所へ向かいました。頭が真っ白になるという言葉がありますが、まさにそんな感じの状態で何かを考えようにも何もちゃんと像を結ばないような状態です。言葉で説明するのは難しいですが。でも、ぼくはそのときカメラと三脚を持っていきました。理由はありません、そうすべきだと思ったわけでもありません。ただ、そうしないと失われてしまうと感じた、というのが近いように思います。現場につくと、頭が真っ白ながらも体はとてもてきぱきと動きました。三脚を立て、カメラをセットし、フィルムを装填し、フレーミングしてピントを合わせ、露出計で光をはかり、絞りとシャッタースピードを決めてシャッターを切りました。我がことながら、体って自動的に動くもんだなと思ったことを覚えています。薄暗い場所に朝の光が入り込み、妙にきれいに見えました。敷いてあった毛布にはタバコの焦げあとがあって、最後の一服だったのかなぁと思いました。その物置は会議室の隣にあって、そのときはちょうど会議が行われているところでした。そこに自殺した職員の息子がやってきて、一言も喋らずに大きいカメラでバシバシ写真を撮り始めるんだから、きっと奇妙な光景だったと思います。それからずっと、なんであんな時なのに写真を撮ったんだろうなぁと思うようになります。何のために、誰のために撮影したのかわからなかったからです。まあ、でもそれは自分のためで、何か大事なことだったんじゃないかと思ったのですが、それが何なのか全然わからなかったんです。その疑問が広がって、なんでみんなこんなに写真を撮るんだろう、ということに繋がっていきました。正直に書きますと、いろんなことに一生懸命手を貸してきたのは、この10年にわたる個人的な疑問に通じる部分があったからじゃないかなぁと、今では思います。ぼくはあのとき、写真にすることで現実を全部受け止めるのを保留したんですね、それから時間をかけて受け入れていったんだと思います。これは楽しい写真でも同じだと思います。写真にして留め、それを引き延ばすことで、後になっても少しはその時の楽しさを味わうことができます。こう思うと、家の引き出しや携帯電話に入っている何気ない写真が、とても大切なものに思えてきませんか?
 
 
 
 

追伸

 
2013年はずっとこの本を作っていた。今まで起こったことを思い出しながら文章を書いて写真を選んだ。本の中身がほぼ完成したころ、ずっと一緒にプロジェクトをやってきた星さんが死んでしまった。今はいろんなことが思い出せるけど、この先どんどん記憶は曖昧になっていくんだと思う。そして残った写真を見ながら記憶を再生するようになっていくんだと思う。星さんとは思い出サルベージの現場で出会った。自分の専門分野以外の能力が欠けている偏った人間が多い中で、星さんの明るさと気遣いがみんなをまとめていた。被災地だからと暗くならずに、ボランティアには楽しく作業をして帰ってもらって山元町を好きになってほしいと言っていた。ボランティアばかりやっている大学生たちの人生を本気で心配していた。困ったことがあればなんでも力になろうとした。そして自分の辛いことは一切表に出さなかった。星さんがいなければ、思い出サルベージとこんなに関わり続けることもなかったし、LOST & FOUND PROJECTをスタートさせることもなかったと思う。東京から山元町にやってきたぼくらは、地元でやって良いことと悪いことの判断がつかなかったので、ことあるごとに星さんに相談した。例えば、写真を洗浄して持ち主に返そうとしていた時、何度も話題になったのは個人情報をどう扱うのかという問題だった。簡単に言えば、プライベートな物である写真を返却するためとはいえ他人に見られることを嫌がる人はいるだろう、ということだ。津波に家を流されてほとんど戻る物がない時に写真を探しにくる人がいて、さらに今判断せねばどんどん写真が劣化していくだろうという状況があって、ぼくらには手段があった。目の前に探している人がいて、きっとどこかには見られたくない人がいるという時に、ぼくらは目の前の人に協力することを選んだ。縁がある人のために動くというのは、人間として自然なことなんじゃないだろうか。こう思えるようになったのも星さんと話し合ってきたおかげだ。そしてそれはLOST&FOUND PROJECTでも同じことだった。持ち主がわからないとはいえ、写真を山元町から持ち出すことが果たしていいことなのかどうかは誰にもわからなかった。ダメージが酷い写真を捨てたくなかったというのもあるし、寄付金を集めたかったというのもある。けれどぼくは東京と山元町を往復する中でだんだん感じるようになっていた違和感をどうにかできないかとも思っていた。当時東京に入ってくる情報は、どんどん作り物めいていっているように感じた。家族や友達を急に失う気持ちというのは1年や2年で簡単に納得できるようなものじゃない、表面的にどんなに元気に振る舞ってもそれはずっと心の中にあるはずだ。少なくともぼくの父親が自殺した時は、3年間は辛さが変わることはなかった。そしてその思いを考慮せずに応援したとしても、すれ違いが増すばかりじゃないかと考えた。津波に流された写真を見てもらうことで、その気持ちの差を少しでも埋められると思ったし、それは必要なことだと思った。星さんに相談すると、いつも最終的におれたちは悪いことをやろうとして活動しているわけじゃないんだし、やれるだけやって怒られたらちゃんと謝ろうという結論になった。いつだって応援してくれる友達だった。ぼくも含めて、星さんに関わったみんなのカメラの中には星さんの写真が何枚も入っている。どれも楽しそうな写真ばかりだ。これからみんなの写真を集めてアルバムでも作ろうかと思う。残された写真はいつだって楽しかった記憶を思い出させてくれる。その楽しそうな顔を見て、笑えるときもあるし、寂しくなるときもある。どんな気持ちになったとしても写真はある方がいい。この本に載っている写真は、比較的イメージが残っているものを選んだので、また持ち主が見つかればいいなと思う。
 
[それからの日記 『津波、写真、それから』(赤々舎)より全文掲載 了]

★近日中に、高橋宗正と内沼晋太郎によって行われた『津波、写真、それから』刊行記念トークイベント「写真と本と。」のレポートを公開予定です。お楽しみに。

 
 


このコンテンツは、写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)の中で綴られている高橋宗正さんの日記を、
赤々舎の協力を得て、全5回に分け全文掲載しているものです。


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高橋宗正『津波、写真、それから –LOST&FOUND PROJECT
2,600円+税 | 344×247mm | 152頁 | 並製 | 全編日英併記
アートディレクション:寄藤文平
2014年2月発売 赤々舎
Amazon / 赤々舎

PROFILEプロフィール (50音順)

高橋宗正(たかはし・むねまさ)

1980年生まれ。2002年「キヤノン写真新世紀」優秀賞を写真ユニットSABAにて受賞。2008年、「littlemoreBCCKS第1回写真集公募展」リトルモア賞受賞。2010年、写真集『スカイフィッシュ』(赤々舎)を出版。同年、AKAAKAにて個展「スカイフィッシュ」を開催。2014年2月、LOST & FOUND PROJECTをまとめた写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)を出版。http://www.munemas.com/