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高橋宗正 それからの日記

高橋宗正 それからの日記
『津波、写真、それから』(赤々舎)より全文掲載 (2/5: 2011.5.5-2011.7.24)

高橋宗正_それからの日記

宮城県山元町で津波に被災した写真を持ち主に戻す「思い出サルベージプロジェクト」と、ダメージが酷く処分される運命にあった写真を世界各国で展示し寄付金を集める「LOST&FOUNDプロジェクト」。東日本大震災の後、この2つのプロジェクトに関わった写真家・高橋宗正さんが、写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)の中で綴った日記を、5回にわたり全文掲載していきます。
一度見失った「人が写真を撮る意味」を、一人の写真家が再び見出すまでの記録です。
協力:赤々舎

【以下からの続きです】
「それからの日記」1/5: 2011.3.11-2011.5.5

 

2011.5.5 55日目 午後

 
まずは現状のデータ化のやり方を見せてもらい、それから持っていった機材を使ってテストをして、うまくいくことが確認できたので複写の方法の説明をした。光を物質と考えて、どこから入って被写体に反射してカメラに届くのか、その方向を見ることでアルバムの表面のビニールへの写り込みを極力避けるという方法だった。次の問題は機材だった。さっき見た厖大な量の写真をデータ化するには機材も人手も全然足りていなかった。とにかくカメラと三脚が必要だった。まずは友達や先輩のカメラマンの家に眠るカメラを狙うことにした。カメラマンというのはだいたい仕事のメインで使うカメラとは別に、予備のサブカメラを持っている。さてどうやって口説くべきか。そんなことを考えながら、帰りの新幹線の中で予告としてツイッターに書き込んだ。東京に戻ったら、知り合いひとりひとりに連絡するつもりだった。思い出の写真を持ち主の手に帰すためにカメラと三脚が必要なこと、現場は津波によるヘドロが乾燥した細かいチリが酷くカメラには最悪の環境であること、なので借りるというわけにはいかないこと、だからくれ!!という感じで。このツイートは東京に着くまでの2時間くらいの間にどんどん広まり、何人もの会ったことのない人たちからカメラや三脚の提供の申し出があった。友達も先生もみんな協力してくれた。多くの人が何か機会があれば手伝いたいと思っていた時期だった。カメラが10台以上、三脚が7台ほど集まり体制は整ったものの、今度は別の問題も浮上してきた。いろんな人がくれたいろんなカメラは、もちろんメーカーも機種もバラバラだった。一眼レフを使ったことのない大学生ボランティア達にカメラの使い方を教えたり、マニュアルを作るためにはある程度の数の同じカメラが必要だった。
 
 

2011.5.17 67日目

 
ぼくは2002年に写真新世紀というキヤノンが主催している新人賞でデビューし、その後コンパクトカメラのホームページに登場したこともあって、キヤノンには何人かの知り合いがいた。きっとキヤノンの社員ならみんなカメラをいっぱい持ってるんじゃないだろうか、という安直な思いつきで電話をかけて事情を説明し、社内でカメラをくれる人を個人的に募ってみてもらえないだろうかとお願いしてみた。久しぶりに連絡してカメラくれじゃあ嫌われるかもしれないな、とも思ったけれど、可能性があるならば何でもやらないといけない、という気持ちだった。普段とてもよくしてくれる人たちだから、きっと協力してくれるだろうという期待もあった。結果的にはこれがマーケティング部の部長さんの耳に届き、EOS Kissを5台提供してもらうことができた。これでマニュアルを作ることもできたし、このカメラ達は2年が経った今も山元町で活躍している。
 
 

写真部

 
マニュアル作成と同時に写真部も作った。定期的に山元町にボランティアに来ていた大学生達にカメラの使い方を覚えてもらうべく、朝1時間早く起きて絞りとシャッタースピードとISOの関係や、順光、逆光、サイド光の違いなどを教えていった。合言葉は、「いい写真が撮れるとモテる!」少ない時間でみんなどんどん腕を上げ、そして写真を撮ることを好きになってくれた。
 
 

2011.5.21 71日目

 
こうやって準備を進めると同時にボランティアを募り、毎週末20〜80人が山元町に集まるようになった。ぼくと同じように、何かできることがあれば手伝いたいと思っている人は多く、たくさんの応募が寄せられた。半数は写真の洗浄、半数は複写に分かれ、作業は少しずつ確実に進んでいった。ある程度人数が増えると、旅日記という旅行会社に協力してもらいバスツアーを組んだり、山元町の近くの白石にある温泉旅館に格安で泊めてもらったりした。学生、写真関係者、町の写真屋さん、手を貸したいというボランティアさんなど、本当に多くの人が力を合わせて作業を進めていった。この頃になると、写真を持ち主に返そうという考えに共感する人のあまりの多さに、ハッキリとではないけれど写真の意味を感じるようになっていた。
 
 

新藤さん

 
ボランティア募集を始める少し前、どのようにプロジェクトを進めるかという話し合いが行われたとき、やたら体が大きく髭面で声が高いマイケル・ムーアに似た人がいた。もずやというWeb制作の会社をやっている新藤さんは、具体的に人が参加しやすい募集のノウハウをもっていた。Webは大きな入り口になりうるが、それは出口も大きいということであり、シンプルに意味が伝わらないと人はすぐに出て行ってしまう。プロジェクトのキーパーソンは何人もいたけれど、参加の入り口を整備する新藤さんがいなければプロジェクトはこんなにうまくいかなかっただろうと思う。
 
 

星さん

 
ある日、作業をしているとつなぎの作業服を着た人がいちごを差し入れに来てくれた。山元町はいちごの有名な産地とのことだった。ぼくはしばらくいちごを持ってきてくれた星さんのことを農家の人だと思っていたのだけど、本当は山元町に住んでいる旅行業の人で思い出サルベージを立ち上げたひとりだと知った。それから、ぼくらは仲良くなりいろんなことを話し合った。やがて一緒にLOST & FOUND PROJECTを立ち上げ、写真と一緒にいくつかの場所を旅することになった。ぼくらはすぐにボランティアと被災者という関係ではなく、友達になった。
 
 

2011.5.22 72日目

 
作業が順調に進むなかで、ダメージが酷く誰の写真か判別がつかないだろうと思われる写真が出てきた。それは少しずつ、しかし着実に増えていった。これらの写真をどうすべきかという話し合いが何度もあった。このままでは処分されてしまう運命にあるのではないかとみんな心配していたのだ。どうすればいいかはわからないけれど、処分されてしまうのは悲しいというのが話し合ったみんなの気持ちだった。ぼくはそのときとくに考えがあったわけじゃなかったけれど、「なんとかするからとりあえず捨てずにおこう」と言って、その写真を入れるための箱を作った。その箱には「もうダメBOX」と名付けた。そして判断基準は現場で手を動かしている人が決めればいいんじゃないか、ということになった。これは暫定的な対応で、その時点で処分される可能性を保留しただけだった。やがてそれらの写真がLOST & FOUND PROJECTを生み、いろんな場所を旅していくことになる。
 
 

2011.6.22 103日目

 
写真の洗浄とデータ化がある程度進んだところで、写真を返すための場所が作られた。アルバムは全てナンバリングされ、箱に入れられてずらりと並んでいた。バラバラで見つかった写真は、一枚ずつナンバリングされてファイルに入れた。全ては町の中で見つかった場所ごとにエリア分けされて並んでいた。ほとんどのアルバムは台紙がしっかりしていて元々それなりの重さがある、そのうえそれらは津波の水を吸ってさらに重くなっていた。部屋中に並べられた箱の中から一冊ずつアルバムを取り出し確認して、自分のものではなかったら元に戻す、という作業を延々と続けるのはお年寄りにはかなりしんどいようだった。すぐに見つかればいいけれど、なかなか見つからないと心が折れる。そこでまずはアルバムのデータからインデックスを作ることになった。アルバムの表紙の写真と、アルバムの中の写真から本人が自分のものだとわかりやすそうな写真を3枚ピックアップして一枚の紙にプリントした。これをファイリングすることで、ページをめくるだけで一冊ずつアルバムを確認することができるようになった。
 
 

2011.6.26 117日目

 
ぼくはデータ化部隊をまとめる立場にあったので、あまり返却作業は手伝えなかったけれど、返却に立ち会ったときいまでも強くおぼえているできごとがあった。インデックスのファイルが並ぶ部屋に、ひとりのおじいさんがいた。一緒にファイルを見ていると、そのおじいさんの若い頃の写真が見つかった。「おー、これおれだ」「本当ですか、よかったですねえ。ずいぶん男前じゃないですか〜」なんてことを話しながらファイルをめくっていると、若い親子の写真が出てきた。子供は5才くらいだった。「ああ、これ孫の友達だ」「おお!見つかりましたか、よかったですね」「でも、一家みんな流されて死んじゃったんだよ」ぼくは「そうなんですか」としか言えなかった。いまでも何と言えばよかったのかわからない。写真を見つけるということは生きた過去を取り戻すことでもあるけれど、死んでしまって戻らない人がいるということを突きつけてしまうことでもあった。
 
 

2011.7.17 128日目

 
プロジェクトのスタートから3ヶ月ほど毎週末みんなで代わる代わる作業して、ほとんどの写真の洗浄とデータ化は完了した。概算で、写真は75万枚あった。初めて目にしたとき、絶対に無理だろうと思っていたこともみんなで力を合わせることで達成してしまった。人間やればできる。
 
 

2011.7.24 135日目

 
複写された厖大なデータは、ニフティの協力によりデータベース化され、地域ごとに分けられパソコンで閲覧できるようになった。また、その後東北大学院生の保良くんの努力により別のデータベースも作成され、グーグルのピカサというフリーソフトの顔認識システムを活用することで、探しにきた人の顔と似た顔の写真を膨大なデータの中から探せるようになっていった。このようにして約3年間で30万枚ほどの写真が持ち主に返っていった。返却作業は2014年になっても溝口くんを中心に継続されている。
 
3/5に続きます(毎週月曜日更新予定)
 
 
 


このコンテンツは、写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)の中で綴られている高橋宗正さんの日記を、
赤々舎の協力を得て、全5回に分け全文掲載しているものです。


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高橋宗正『津波、写真、それから –LOST&FOUND PROJECT
2,600円+税 | 344×247mm | 152頁 | 並製 | 全編日英併記
アートディレクション:寄藤文平
2014年2月発売 赤々舎
Amazon / 赤々舎

PROFILEプロフィール (50音順)

高橋宗正(たかはし・むねまさ)

1980年生まれ。2002年「キヤノン写真新世紀」優秀賞を写真ユニットSABAにて受賞。2008年、「littlemoreBCCKS第1回写真集公募展」リトルモア賞受賞。2010年、写真集『スカイフィッシュ』(赤々舎)を出版。同年、AKAAKAにて個展「スカイフィッシュ」を開催。2014年2月、LOST & FOUND PROJECTをまとめた写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)を出版。http://www.munemas.com/