某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。2019年ももうすぐ終わり。この十年を総括するタイミングがやってきました。さまざまな環境の変化とともに、魅力的な出版物も振り返っていきます。
第29回 2010年代を振りかえる
2019年も、いよいよ12月。
2010年代も終わるということで、この10年を振りかえる企画がいろいろ出ています。
※とはいえ、2019年で2010年代が終わるということでいいのか、という問題はありますね。
20世紀の終わりは1999年ではなく2000年ですよ、なんて話が当時はありましたから、2010年代が終わるのもほんとうは2020年なのかもしれませんが、まあ、気にしないでいきましょう。
というより、2000年代に入ってもう20年たったというのが、なかなか驚きですが。
さて、そんななか、英BBCが「2010年代に読書はどう変わったか」という記事を出していましたので、今回はそれを見ていきましょう。
▼美観の重要性
見た目の美しさがよりもとめられるようになった、と記事はいいます。
それは、ネットの画面上で本を見るようになったために、読者の目を引くことが重要になったためのようです。
さらに、出版社も特別な本を提供しようとするようになりました。
2015年に出版された、カズオ・イシグロの10年ぶりの新作『忘れられた巨人』では初版時に特装版が作られました。
また、独立系のヴィジュアル・エディションズという版元は、文字どおり美しい本を作っているそうで、たとえば、ジョナサン・サフラン・フォアの『Tree of Codes』はこんな具合です。
ポーランドの作家ブルーノ・シュルツの作品からテクストを切り取ってみずからの作品を仕立てあげたそうで、これは工芸品ともいえそうです。
そういえば日本でも、デザインや造本に凝ることが増えてきているように思います。
読者の所有欲あるいは収集欲を高める方法なのでしょう。
▼難解さも受ける
そのヴィジュアル・エディションズですが、最初に作った本は『トリストラム・シャンディ』だったというのですね。
それに刺激され、2013年には、小説の新しい可能性をひらいた作品を表彰するゴールドスミス賞が制定されます。
この賞のおかげで、難解な小説、読みにくい作品が注目を集め、1万部単位で売れるという流れができたといいます。
作家が野心的な作品に挑むだけでなく、受け手の側も冒険心に富んだ読書を歓迎するようになったのです。
▼オーディオブックの隆盛
電子書籍が一般化したいっぽう、オーディオブックが目覚ましい売れ行きを示した時期でもありました。
英国では、2017年には前年比47%増、18年にも38%増と伸びつづけています。
そしてついには、2020年にはオーディオブックの売上が電子書籍をうわまわるという予測が出ました。
オーディオブックがまだまだメジャーとはいえない日本では、にわかには信じられない試算ですね。
もっともこれには、オーディオブックが値段が高く、逆に電子書籍は安いということも影響しているとの分析もあり、ユニット数(部数)でいえば、まだまだ電子書籍のほうが多いとのことです。
そうはいっても、オーディオブックはいま注目の市場です。
そのため、朗読者に有名な俳優が続々投入されています。
ジョージ・ソーンダーズの『リンカーンとさまよえる霊魂たち』(上岡伸雄訳)では、さまざまな語り手が登場するため、スーザン・サランドン、ジュリアン・ムーア、ベン・スティラー、ドン・チードルに作家自身等々が集められているのですね。
さらにオーディオブックは、視力や身体の機能障害で本を読むことが困難な人たちにとっての有効な読書の手段としても注目されています。
日本でも今年2019年、読書バリアフリー法(視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律)が成立しています。
▼インスタ詩
「インスタ詩」とは聞きなれない言葉ですが、「Instapoetry」=インスタグラム+詩ということですね。
文字どおり、インスタグラム(その他のSNSの場合もあるようですが)に詩を公開することだそうで、パンジャブ系カナダ人のルピ・カウア氏の場合、400万人のフォロアーがいて、2015年にセルフ・パブリッシングで本を出したところ、2年間にわたってNYタイムズのベストセラー・リストにのりつづけたそうです。
じっさい、ハッシュタグで見ると、インスタグラムだけで300万をこえる投稿があがっているようです。
写真やイラストやカリグラフィーと結びついて、詩が身近になったということなのでしょう。
ただ、場がSNSですから、シェアされることを意図して作られていて、多くは出来がよくないという見方もあるようです。
▼セルフ・パブリッシング
アマゾンがもたらしたのは、流通面の激変だけでなく、キンドルによる電子書籍市場の創出によって、セルフ・パブリッシングを容易にしたこともあげられます。
これにより、出版社を介さずに作家になる人びとが激増し、2017年には、米アマゾンで10万ドルをこえる印税を得た著者が1000人に達したといいます。
その筆頭がE L ジェイムズで、セルフ・パブリッシングで大成功をおさめ、出版社との契約にいたったのでした。
そしてその『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(池田真紀子訳)は、2010年代に米国でもっとも売れた本になったのです。
▼きびしい時代
とはいえ、いっぽうで出版産業にかげりが見えているのは、洋の東西を問わないようです。
英国で5500人余の職業作家に訊いたところ、2005年には19700ポンドだった収入が、18年には42%減の10500ポンドに落ちこんでいるそうです。
女性作家の収入は、男性の75%ということなので、男女格差もあるようです。
英国の気になる動きとしては、公立図書館の減少があります。
2010年以降、773の図書館が閉館し、30%近く減ったというのです。
2万4000人いた有給スタッフも1万5300人に減少し、かわりに5万1000人のヴォランティアによって運営が支えられているのだそう。
累計3億1500万人いた利用者も、2億2600万人まで落ちているといいますから、憂慮すべき事態に思えます。
さまざまな面で危機をはらんではいますが、それでも、作家の多様性をもとめる出版社の動きもあり、読者も著者も、本への情熱を持ちつづけている、というのがBBCの見通しではあるのですが。
▼出版物で振りかえる2010年代
そんな折り、エンターテインメント・ウィークリイが2010年代のベスト・ブックとして、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(谷崎由依訳)を選出しました。
ほかに、10年代のファンタジイのベストはN・K・ジェミシンの《ブロークン・アース》3部作、ベスト・シリーズはエレナ・フェッランテの《ナポリの物語》だというのですが、興味深いのは、最大のトレンドは「信用できない語り手」だというのですね。
たしかに、いわれてみれば、大ヒットとなったドメスティック・サスペンスのギリアン・フリン『ゴーン・ガール』(中谷友紀子訳)やポーラ・ホーキンズ『ガール・オン・ザ・トレイン』(池田真紀子訳)やA・J・フィン『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』(池田真紀子訳)などは、この系譜で考えることができそうですね。
さらに、2010年代を本で振りかえりたい向きには、ぜひ以下のサイトを参考にしていただきたいところ。
2010年のジョナサン・フランゼン『フリーダム』(森慎一郎訳)、パティ・スミス『ジャスト・キッズ』(にしむらじゅんこ・小林薫訳)にはじまり、今年のトランプ大統領のロシア疑惑を捜査したマラー(モラーまたはムラー)特別検察官リポートまでが選ばれています。
これまであげた『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』や『ゴーン・ガール』や《ナポリの物語》はもちろん、あげられている本を見ているだけで、ああ、あれもあったなあ、と思いだします。
マイケル・ルイス『世紀の空売り』(東江一紀訳)、スーザン・コリンズの《ハンガー・ゲーム》完結編『マネシカケスの少女』(河井直子訳)、タナ・フレンチの『葬送の庭』(安藤由紀子訳)などダブリン・シリーズ、ジョージ・R・R・マーティンの《氷と炎の歌》シリーズ『竜との舞踏』(酒井昭伸訳)、ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』(井口耕二訳)、アーネスト・クラインの『レディ・プレイヤー・ワン』こと『ゲームウォーズ』(池田真紀子訳)、アンディ・ウィアー『火星の人』(小野田和子訳)、カール・オーヴェ・クナウスゴール『わが闘争』(岡本健志・安藤佳子訳)、シェリル・ストレイド『わたしに会うまでの1600キロ』(雨海弘美・矢羽野薫訳)、ジョン・グリーン『さよならを待つふたりのために』(金原瑞人・竹内茜訳)、マララ・ユスフザイ『わたしはマララ』(金原瑞人・西田佳子訳)。ドナ・タート『ゴールドフィンチ』(岡真知子訳)、シェリル・サンドバーグ『LEAN IN』(川本裕子・村井章子訳)、ケビン・クワン『クレイジー・リッチ・アジアンズ』(山縣みどり訳)、ジョージ・ソーンダーズ『十二月の十日』(岸本佐知子訳)、トマ・ピケティ『21世紀の資本』(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)、近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』、ナオミ・クライン『これがすべてを変える』(幾島幸子・荒井雅子訳)、ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(野中モモ訳)、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』(柴田裕之訳)、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(くぼたのぞみ訳)、マーロン・ジェイムズ『七つの殺人に関する簡潔な記録』(旦敬介訳)、タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』(池田年穂訳)、ハーパー・リー『さあ、見張りを立てよ』(上岡伸雄訳)、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代』(松本妙子訳)、コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』(谷崎由依訳)、エマ・クライン『ザ・ガールズ』(堀江里美訳)、マーゴット・リー・シェタリー『ドリーム』(山北めぐみ訳)、アンジー・トーマス『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』(服部理佳訳)、リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(木原善彦訳)、ミシェル・マクナマラ『黄金州の殺人鬼』(村井理子訳)、マイケル・ウォルフ『炎と怒り』(関根光宏・藤田美菜子訳)、
とまあ、列挙するだけでもすごいラインナップではないですか。
2020年代に入っても、わたしたちは読むのをやめないだろうし、さまざまな人がいい本を書いてくれるかぎり買いつづけるだろう、と思うのです。
[斜めから見た海外出版トピックス:第29回 了]
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