COLUMN

田内万里夫 SUB-RIGHTS

田内万里夫 SUB-RIGHTS
02: Brief Interviews With Hideous Men

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海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だ。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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 フィーロン・エージェンシーのオフィスには20〜30ものタイトルが、毎日のように航空便で送られてくる。タイトルとはいわゆる本のことだ。ただ一口に本と言っても既に出版されたものだけではない。これから出版される未刊のものもある。未刊の本は大抵「ギャリー(galley=ゲラのことであり、その語源)」もしくは「プルーフ版(bound proof=綴じた校正版のこと)」と呼ばれる冊子、またはゴムバンドでまとめられたA4サイズの原稿の束といった形で届く。ちなみに原稿は「マニュスクリプト(manuscript)」とそのまま英語で呼ばれることも多い。加えて、これから書かれる予定の本の企画書も山ほど到着する。

「このプロポーザル、ちゃんと読んでね。それで欲しいか欲しくないか、返事しておいてくれる?」と、三輪さんから数枚のプリントアウトを手渡される。「そうそう、売れると思うか思わないか、フンフンフン、そういうこと。」
 プロポーザル(proposal)というのは企画書のことだが、僕たちの手元に届くプロポーザルは大方もう本国での出版が決まっている。出版予定のない企画書が送られてくることはほとんどない。「本国でも出版できるかできないか分からないものを、日本で検討したって効率悪いやんか。だから」と三輪さん。
 本、プルーフもしくはギャリー、原稿、プロポーザル、なんであれ九割方がアメリカかイギリスからの小包で、つまりは英語で書かれたものだ。日本で出版される大方の翻訳書が英語からの和訳と考えてほぼ間違いないと先輩エージェントの鈴木さんが教えてくれる。
「だって例えば私たち英語しか読めないでしょ? 編集者も似たようなもの。翻訳者だって英語以外の人は少ないの。フランス語やらドイツ語やら、他の言語で書かれた本にだって良いものは当然あるんだけど、なにしろ英語以外のものを、言葉のできる人に読んでもらって内容を把握してってやってたら、もう企画検討するだけでコストが余計にかかるわけ。つまり効率が悪いの」スパッとしたボブカットの鈴木さんはわりと大柄な女性で、打ち合わせのある日は目元のメイクに気合が入っている。「元が何語でも、一度英語になってしまえば可能性が広がるんだけどね」英語以外の原作のものは、それぞれの言語を専門とする訳者からの持ち込み企画が多いそうだ。

 ざらっとした厚手の色紙が巻かれたプルーフ版の表紙には、太文字でタイトルと著者名、それから出版社名、出版予定日、予定価格などが記載されている。もちろん「NOT FOR SALE(非売品)」だ。見た目はそっけないが、印刷された紙が安手のものだったとしても内容は一冊の本そのもので、むしろ味がある。ちょっとした秘密を手にしたような気分になる。対して流通用に印刷製本され、商品の形に仕上がったものは「完本(finished copy)」と呼ばれている。それぞれに個性豊かでロマンチックな装いの本を「商品」と呼ぶことに、僕は少しばかり戸惑いを覚える。
「ロマンとは、そもそも小説という意味のフランス語なんだ」と、フィーロンさんが教えてくれる。フィーロンさんはその気になればフランス語だって読めるらしいが、仕事はやっぱり英語のタイトルが優先される。
 翻訳書の元になる本が、様々な言語で書かれた「原書」と呼ばれているものだが、僕たちが取り扱うもののほとんどは、そのような理由で英語の原書だ。本国でも未刊のものなら「原書のプルーフ版」、もしくは「原書の原稿」ということになる。やがて高速化したインターネットに業界が馴れてきた2000年頃から、プルーフ版やギャリーが国際便で送られてくることが徐々に減り、メール添付のテキストファイルやPDFが取って代わった。データファイルの形で届く本は味気なく、おまけにその姿はデスクトップ上のアイコンでしかないから存在感がなく、どの本がどのファイルなのか、見当がつき難く注意が向かない。

 さておき、僕たちはまず届いた本の内容を、ざっくりとでも把握する必要がある。一冊の本を丸ごと読み切るような時間も余裕もとてもなく、完本のカバーやその袖に書かれた紹介文のなかにキーワードを漁る。プルーフ版なら裏表紙にあたる、いわゆる「表四」と呼ばれる部分や、そうじゃなければ表紙を開いた最初のページに、煽りの効いた紹介文が簡潔にまとめられている。その煽り文句を読んで興味が湧けば、はじめてページを開いて、実際にその本の内容や書きぶりを、斜め読みで確かめる。
『パブリッシャーズ・ウィークリー』や『カーカス・レビュー』といったアメリカの業界誌の書評記事に自社で扱う本のタイトルを見つければ、それを売り込みの参考にする。アメリカから送られてくる見本なら、『ニューヨーク・タイムズ』や『ロサンゼルス・タイムズ』といった有力な新聞、『ザ・ニューヨーカー』や『ハーパーズ・バザー』のような洒落た情報誌に掲載された書評のコピーが挟まれていることも多い。まだ回線の遅い時代のインターネットで、書評や関連記事、誰が書いたのかも分からない読者レビュー、出版社の書籍紹介ページや著者インタビューなどを探しては、端から斜め読みする。

 三輪さんや他の先輩エージェントを訪ねて、出版社の編集者が翻訳書のネタ探しにやってくる。日本語をほとんど話さないフィーロンさんを訪ねてくる人は、よほど気心の知れた相手に限られる。腰の重い相手には、こちらから本や資料を抱えて出向いてゆく。一社と会えば5作品や10作品はしっかりと紹介したいところだが、なんでもかんでも紹介すればいいというものでもないらしい。出版社ごとの出版方針や傾向、編集者の趣味というものがあるし、トレンドも大きく影響するようだ。自分では内容を細かく把握していない本でも、相手が目にとめて興味を示す場合もあるから、ミーティングのテーブルのうえに相手の求めていそうな本をとりあえず積んでおくと良いことがあるらしい。版権エージェントとしてのルーチンを取り敢えず吸収しなくてはと、僕は三輪さんたちの仕事ぶりに目を凝らし、耳を澄ます。
「この本、ごめんなさい! 今検討してくれている社が3社あって、どうもオークションになりそうなんですわ。フンフンフン、でも関心ある? なるほど。おーきにです。でもそうなると、あとはどうしても金額ということになってしまいますわぁ」と、三輪さんが受話器に向かって顔をほころばせている。当然のことながら、ひとつの作品の翻訳権は一社にしか売ることができない。
 受話器を置いた三輪さんが、やれやれという顔で、こちらにやってくる。
「どうしたの、フンフン。今日も二日酔い? またマイクに飲まされた? 今日は夕方から一緒に新潮社に行くから、ウン、ちゃんと用意をしないと。マリオ君が会ってみたいと言ってた編集者の坂西さんもいるから。良かったやんか」息がかかりそうなほど近寄ってくるのが、どうやら三輪さんの距離だ。「まあ、そう固くならなくてもええやんか。紹介したい本、何冊かデスクに置いておいたから、フンフンフン、読んでおいてね。自分で紹介したい本が他にあったら、何冊か持っていって試してみたら? 文庫の編集長の若月さんが探してるのがミステリーやスリラー、それから文芸の坂西さんにはリテラリーな小説ね。ではよろしく」
 リテラリー・フィクションとは、いわゆる文学作品、純文学と呼ばれたりする種類の小説のことだ。小説と言ってもそのジャンルは細分化されている。ミステリー、スリラー、サスペンス、ノアール、クライム、SF、ホラー、ロマンス……。ジャンルのくくりは多様で、更にそれぞれのジャンルのなかにサブジャンルなるものが存在している。「あ、SF、ロマンティック・サスペンス、パラノーマル、歴史小説あたりは見せても多分取ってくれないから、今日はやめとこ。ノアールも今はなかなか……、フンフン、どうも流行らないから難しいわ。あ、その本はオルタナティブ・ヒストリーだから、多分厳しいわ。え? 面白そう?」
 オルタナティブ・ヒストリーとはどんなジャンルを指すのか分からず訊ねると、「うん、歴史改変モノ」と教えてくれる。例えば、日本とドイツが第二次世界大戦に勝利した世界を舞台に、占領地であるアメリカのその後が描かれる。
「じゃあ、パラノーマルってなんですか?」
「うん、例えば今現在の普通の街に、吸血鬼や悪魔が出て来るような話。あ、それから狼男をモチーフにした小説、アメリカではたくさん書かれるけど、日本ではほとんどダメだから、フンフン、少なくとも今夜はないわ。よけておいてね。ほら、日本にはウエアウルフもドラキュラもいないやんか?」
 狼男も吸血鬼も、世界のどこにも存在しないと思うが、この業界や実務の一般的な物事を事細かに教えてくれる三輪さんの存在はありがたい。でも仕事のレクチャーをしながらパソコンのモニタを指で直接触れてくるから、その都度、僕は後でこっそりとモニタについた指の脂を拭き取らなければならない。おまけに折りに触れ、本当は僕じゃなくて、採用したかった人がほかにいたことを匂わせる。そしてそのようなことを言うときでさえ、というかむしろそのようなことを言うときにこそ、彼は絶対に笑顔を崩さない。聞けばとにかくフィーロンさんが僕を推したのだそうだ。三輪さんも僕も、少なくともその点については「なんでだろ?」と一致した考えを持っている。

 デスクに戻った三輪さんが、また次から次へと出版社に電話をかけている。売り込み中の本については、相手がその本をちゃんと読んでくれているのか、編集会議にかける予定はあるのか、少なくとも編集者として興味があるのかないのか、検討状況を確かめようと脈を探る。脈がちょっとでもありそうなら、よその出版社もその本を狙っていることなどを匂わせながら、もしくはその本は現時点ではあなただけに優先的に見てもらっているのだから結論を特に急いで欲しい、他社のリクエストをなんとか退けているけど時間稼ぎもそろそろ限界、などと言葉巧みに猛プッシュを仕掛ける。ある出版社に売り込みたい本が溜まっていれば、いそいそと会う約束を取り付ける。特別な良書が手元に転がり込んできたり、こちらの事情でどうしても緊急的に翻訳権を売ってしまいたいタイトルが手元にあれば、そのまま電話で売り込みを開始する。頭のなかに数十社分の電話番号が正確に入っているのが、エージェントとしての三輪さんの矜持でもある。
 今夜会うことになっている新潮社の坂西さんといえば海外物の文芸好きにとっては絶対に無視することのできない編集者だとフィーロンさんも言っていた。この春、厳選した海外の現代文学の翻訳シリーズを立ち上げるという計画が業界のニュースになっているという。そんな人に対して物を知らない僕が本の紹介をしなければならないのか思うと、やはり気後れがする。
 斜め前のデスクから三輪さんの電話の口上が聞こえてくる。相手に対して押したり引いたり忙しい。僕は手元の仕事をしながら片耳を傾ける。本を紹介するときの売り文句や、話の展開のさせかたのヒントが聴こえてくる。耳を澄ませながらも、紹介文をまとめる作業にとりかかる。

「盲目の男と、盲目の女。互いのにおいに惹かれ合い、恋に落ちたふたり。初デートの夜、彼等は殺人事件の現場に出くわす。盲目の彼等だけが、殺人犯の香水の特別なにおいに気を留める。“目撃者”として、ふたりは捜査協力を申し出る。しかし目の見えない彼等の目撃証言に聞く耳を貸す者などいない。そんなふたりの存在を殺人鬼が嗅ぎつける。追われる身となり暗闇のなかを逃げ惑う彼等の未来に光は射すのか……」コネチカット州ボルチモア郊外で生まれた著者は、コネチカット大学で民話研究を学び卒業した後、中古車セールスの仕事に就きながら執筆にとりかかる。デビュー二作目となる本書でサスペンス界の新星となるか!?

 ちょっと面白そうな小説があるとつい先を読み進めたくもなるが、そんな余裕があるはずもなく、次の本に取り掛かる。どの本もエンディングが気になるところだが、ネタバレになってしまうので、さすがにそこは紹介文にも書かれていないことが多い。ジャンルはサスペンスとあるけど、これはエッジの効いた実験的な現代文学じゃないのか? ジャンルをどうやって見極めれば良いのか分からず、フィーロンさんに訊ねる。
「はっきりとしたジャンルの境界線なんてあってないようなものだよ。ジャンルというものがあるとすれば、多くの場合、それは書き手の都合よりも売り手の都合さ。書店でどのコーナーの棚に納めればいいのか分からないと、売る方も買う方も困るだろう? ジャンルやカテゴリーについては原書の出版社やレーベルを見れば判断できることもあるし、まあそういう知識は役に立つから身に着けていきなさい。とにかく面白いと思う物語を、世の中に出してゆけばいいんだ」
 夏目漱石の『吾輩は猫である』を「ファンタジー」と位置づけた英語圏の評論家もいるし、それだってまったく間違っているとは言い切れないと、フィーロンさんは笑っている。「どれもこれも人の想像の産物さ」
 マサチューセッツ州のある町の、アイルランド系カソリック社会で実際に起きた猟奇的な殺人事件を題材に、移民社会の労働者階級の歴史の暗部を掘り起こす。マンハッタンのオフィス街を舞台に展開するド派手な金融犯罪を、薬中の刑事が這いつくばって追い詰める。イラク戦争から帰還したマリファナ好きなサーファーがカリフォルニアの海を舞台に麻薬シンジケートを一網打尽にしたうえ、誘拐された少年をものの見事に救い出す。バッドエンド、ハッピーエンド、泣ける話に笑える話、老いらくの恋、叶わぬ青春の恋愛、成長物語、スパイに殺人鬼にカウボーイ、内気なメガネの書店員の田舎娘、愛を証明するために鉄の乗り物——飛行機とか自動車とか——を食べるマッチョな男の話……。
 まだ手をつけていないプルーフ版の山に埋もれたタイトルに気を惹かれる。
Brief Interviews With Hideous Men
 おぞましき男たちへのインタビューの記録、といったところか。気持ち悪い男共の証言集?

「デヴィッド・フォスター・ウォレス待望の新刊は、気色悪い男たちへの(架空の)インタビューをコラージュした23編からなる奇妙で実験的な短編集。未だかつてどの作家も到達し得なかった境地へと読者を誘う。男達の性的な妄想、倒錯の苦悩を鋭く痛快に高い技巧で描き切る。※来春出版予定」著者は1962年、ニューヨーク州イサカに生まれ、その後イリノイ州で育つ。アマースト大学で哲学と文学を専攻しながら、処女作となる『ヴィトゲンシュタインの箒』(講談社)を執筆。その後、アリゾナ大学で修士号を得る。前作『Infinite Jest』(未邦訳)でその地位を不動のものとした。

 ウォレスの名前なら知っている。トマス・ピンチョンの後継者とも目されるポストモダンの若手作家という触れ込みだ。これなら不足はないだろう。アメリカにいた当時、美術史の授業で一緒になった文学好きの女の子からウォレスの『Infinite Jest』がすごいから読んでみろと推められた記憶が蘇る。書店で立ち読みを試みたが、1000ページを超える大著を前に逃げ出した。わずか数ヶ月前の出来事のはずだが、もう遠い過去のような気がする。でもそのことが頭の片隅にあって、帰国後すぐに日本語で出ていた『奇妙な髪の少女』(白水社)を日本語で読んだ。破天荒でポップで正直ちんぷんかんぷんだったけど、刺激的な読書ではあった、と思う。いかにも前衛的で、読んでいる自分自身も世の中を挑発する側に立っているような錯覚が気持良くもあった。
 『Brief Interviews With Hideous Men』のプルーフ版の表紙をめくると、紙袋をかぶったスーツの男の写真が現れた。胸騒ぎを覚え、ページをめくる。「he」と「she」、つまり男と女が登場するが名は明かされず、あっという間に彼等はそれぞれの車に乗って、暗闇のなか別々の帰路につく。カクテルパーティの後だろうか? そのシーンはそれで以上。なんだこれは? ページを更にめくる。ここはどこだ? プールサイドだ。少しピントのずれたホームビデオの長回しのような描写は、少女に語りかける男性の声で再生される。平平穏で賑やかそうな情景がどこまでも続くが、描写に入り込んでくる人々の顔がうまく像を結ばない。詩的で形而上的な気配が漂ってはいるが、水面に反射する揺れる光に邪魔されてフォーカスが合わない。ゆらゆらと眩しい。ページをめくると、唐突にインタビューが始まっている。インタビュアーは女性だろうか? 社会学者か、それとも心理学者の研究調査かなにかだろうか。質問者の声はすべて割愛され、ただ「Q.」という記号のみで記される。
 「Q.」改行。
 そして回答。
 取材対象の男性たちの回答だけが、モノローグのように次から次へと続いてゆく。魅力的な女性を目にした瞬間にその対象をまるで自分に属するものだと思い込んでしまうような身勝手な男たちの独白は、突き詰めれば悶々とした性の話ということになる。妄想かもしれない。暴力が発動しかけて、辛うじてその妄想のなかに押し留められる。性差が予め内包する暴力に無自覚な男たちの独白は確かにおぞましい。人間とはただ言葉を操るだけの動物に過ぎないのではないか……。サイコセラピーの現場を覗き見ているかのようだが、取り調べのようでもある。
 デスク上に積まれた他の本や資料の存在を忘れて読み進める。
 Q.の声に促促されるままに自分語りを続ける男たちの言葉を追っていくうちに、壁と天井と床だけの、まるで装飾のない部屋に閉じ込められているような気分になる。
「三輪さん、この本変ですよ!」
「え、変な本? なにそれ?」
「変ていうか、すごい! やっぱウォレスは天才かも。持って行きますね!」僕はフィーロンさんに見えるように、そのプルーフ版をかざして振り回す。

 飯田橋の駅から神楽坂をのぼり路地を折れると、古めかしく貫禄ある要塞のようなビルが目のまえに現れる。新潮社の応接室の革張りのソファに、坂西さんと若月さんと向き合って座る。簡単に紹介を受け挨拶し、まだ刷り上がったばかりの名刺を手渡し、先ず三輪さんが本の紹介をする様子を伺う。
「……これ、検討します」
「うーん、このタイトルはパス」
 編集者達はその場で次々と即座に判断を下してゆく。
 三輪さんが本の紹介を終えるのを待って、自分が用意してきた5冊を低いコーヒーテーブルに、三輪さんのやっていたように、並べる。感触を確かめたくて、手始めに例の盲目の男と女のサスペンスから紹介する。設定が特殊過ぎて読者が共感できるか分からないと、文庫の編集長の若月さんにやんわりと、しかし即座に却下される。ただし、もし映画化という話があったら、そのときは再検討できるかもしれないから知らせて欲しいとのこと。続く3作品もどうやらピンと来てもらえない。最後に恐る恐るウォレスを登場させて、ヤケクソとばかりに思いの丈を語る。
「この本、問題提起だと思うんですよ。人ってなんなんでしょう? 男と女って? 男って結局のところ女性の存在なくしては自己を保てないんじゃないでしょうか。……って、ヘテロの男性の場合の話ですけど。仮にそれが妄想のなかのことであれ、僕たちは頭のなかで、あらゆる女性を我が物と考えている可能性があるんですよ。だけど実際のところ、現実においてはまったく思い通りにならない。思い通りにならないから、もしかしたら僕たち屈折するんですかね? どうなんだろう。誰もが屈折してるってことは無いのかな。どうなんでしょう? 一般化したらダメですかね? ……でもその屈折をおぞましい事実として、更にそれをフィクションで描くって面白くないですか? まあ、あらゆるフィクションてそんな話なのかもしれませんけど、でもこの本、それが物語の体を成してないように思えるのに、なんか読ませるんですよ。次の証言が気になって、つい読み進めてしまうというか。で、読んでいるうちに人間てもしかしたらものすごく気持ち悪い生き物なのかもしれないと思いはじめたら、それがもう止まらなくなって……。この本、男性のなんたるかを突き止めたい女性の話としても読めるかもしれないんですけど、なんというか、彼女がそもそも何を問題としているのか、僕にはよく分からないんですよ。理解できないというか。なにしろインタビューする側の質問が明示されていなくて……。その無言の問い掛けを読んでるうちに、って読めてはないと思うんですけど、やっぱり女性だっておなじように歪んでいるんだと思うんですね。それが、例えば僕に妄想を起こさせたりもするわけで、結局、性差というものが宿命的に抱える大きな断絶があって、それぞれに生じてしまう歪みと歪みが干渉しあったり補完しあったりするからこそ人間が正気を保っていられるような気もするし、だけどその性差が同時に僕たちの心理に危機的ドラマを生むトリガーにもなっているというか……、そんな話じゃないかと思うんです。これをウォレスが頭のなかだけで作り上げた世界だとしたら確かに気持ちは悪いんですけど、妄想される世界ってなにか経験的な物事をどう解釈してきたかとか、そういうのを根拠に思考をプロセスした結果として示されたりするわけですよね。それで異質とされるものを生み出してこのように評価されるということは、やっぱり天才じゃないかと思うんですよ、この著者。そもそもは男女間の謎がなければ、こういうテーマも生まれないわけですけど……、だからこそ普遍性のある問題だと思いますし。ある意味これって例えば男性という性の立場からの贖罪としての小説かもしれないとも思わされたし……」
 おそらく、もう何を言おうとしているのか分からなくなった僕のことを、銀縁の細いフレームの眼鏡の奥の柔らかい目で制して、坂西さんが静かに口を開く。その横に座る若月さんは、これは自分の領域じゃないと態度ではっきりと示しながら、そっぽを向いている。僕は視線をどこへ向けていいのか分からず、坂西さんの動く口元に焦点を合わせる。
「……ウォレスは確かに確固たる評価を築きつつある作家です。才能は間違いないでしょう。だけど実験しすぎるというか、いわゆる物語として読者に優しいものを書く作家ではない。アメリカでは確かに話題になったし評価もされた前作の『Infinite Jest』も読みました。面白かったし、ものすごい力作だと思います。一部の読者には、多分、熱烈に歓迎される著者かもしれない。だけど、私たちが今作ろうとしているリストに合うか合わないか、それは作品の良し悪しということではなく、あくまでも趣向として合うか合わないかを私たちは考えなければならない。個人的に注目している作家ではありますけどね。……だけど、マリオさんはこの本を魅力的なものだと、そう感じたんですね?」
 回答を促される……。
 そう感じたのかと問われれば、それはそのとおりだが……。僕は坂西さんの眼鏡のフレームが放つ光に、どうにかこうにか視線を合わせて、「とにかく読んでいて引き込まれました」と答える。確かに、実験映画を観た後のような達成感と充実感があった。それだけのことをもってこの作品が優れているかどうかなど、僕にはとても評価できない。理解できたか? 分からない。でも読み進めることには喜びを覚えた。読むことさえ面白ければ起承転結などいらないじゃないか。分かり切ったことばかり読まされたって仕方ないのだし。「まあ……、あとは読者に委ねてみればいいのではないか、というか……」
「売れるか売れないのか、分からない本を出すわけにもいかないですからねぇ。フンフン。でもこの著者、すごいんですねぇ。ユニークというか。うん、時代の代弁者というか。フンフン」しどろもどろな僕を三輪さんが遮る。

 本の紹介をひととおり終え、連れ立って近所の韓国料理屋で一杯となる。あの坂西さんが、僕の推めた本を検討してくれることになったことで、僕は密かなカタルシスを胸に舞い上がり、飲み過ぎる。
「一ヶ月で結論出ますか?」三輪さんが訊ねる。
「うーん。こういう本は読み手を選びそうだし、二〜三ヶ月いただけませんか? ウォレスは確かに存在感があるけど、前作がわりと難しい評価だったし……」坂西さんが慎重に応じる。この「前作」とは『奇妙な紙の少女』のことだろう。評価とは売り上げのことも含むようだ。本国ではマスターピースと呼ばれる本当の前作の『Infinite Jest』も、そういえば日本では買い手がついていないという。1,000ページの英語の小説を和訳すれば日本版はその1.5倍、おおよそ1,500ページほどになってしまうのだそうだ。1,500ページのハードカバーは販売価格も高くなり、売るのが難しい。「あれはそもそも単巻で出せるかどうか。多分、出すとしたら上下巻でしょう? 分冊はなかなか厳しい。文庫の作家でもないだろうからなぁ」坂西さんは、網の上で音を立てる柔らかそうなカルビをひっくり返しながら文庫編集長の若月さんを横目で見る。「……とはいえ、もちろんウォレスは気になる作家だし、テーマは面白そうだから、ちゃんと読みます。あなたみたいな若い読者もつくかもしれないし。ところでライス、頼みますか? お腹減ってない?」
「あ、いただきます!」緊張が緩んだせいか、脂の焼けるにおいに胃を刺激されたのか、空腹感が押し寄せてくる。見透かされたようで気恥ずかしいが、その配慮が嬉しい
「うん、俺はいいや。いきなりご飯とは、やっぱり若いなあ」と、若月さんが冷やかすように笑う。四十代半ばといったところか。僕の前だけに、つやつやとしたライスが運ばれてくる。
『Brief Interviews With Hideous Men』は原書のプルーフ版で300ページ強というボリュームだ。教えられたばかりの計算式に当てはめるなら日本語版は450ページ、プルーフ版の文字組みがキツく整えられているとして、慎重に見積もって500ページほどの本となるだろう。多少は厚いとも言いえるが、この手の文芸ならまあ許容範囲でしょうということだ。
「じゃあ、結論は7月中に、かならず」と、三輪さんが念を押す。

 もう9時を回っているのにこれからまた会社に戻るという編集者と別れ、僕たちは帰路につく。飯田橋の改札で沿線の違う三輪さんの姿が見えなくなった瞬間、僕は衝動的に駅の階段を引き返して駆け上り、まっさきに目についた酒場に飛び込む。あの本が日本語に訳され、新潮社のロゴが入って出版され書店に並ぶ。新聞の日曜版や文芸誌などのメディアが、こぞって書評を掲載する。評判になり、そのおかげで出版社に見捨てられた幻の前作も日本語に訳され出版されることになるかもしれない。もしかしたらその縁で、ウォレスと知り合うようなこともあるかも。そうなったら訊いてみたいこともある。10年後にウォレスが自殺することになるとも知らずに、生ビールの爽快感と妄想が、僕の酔った頭のなかでぐるぐると回る。明日フィーロンさんに会ったら、先ずこのことを報告しよう。
 僕の分と三輪さんの分、却下された何冊のもの原書でかさばる重いバックパックが邪魔にならないように気をつけて体の正面に抱え、どこまで行っても人の多い夜更けの電車を乗り継ぎ、まだ引っ越したばかりの狭いアパートを目指す。留学する前の学生時代に遊び歩いた下北沢から各停で3駅先の、豪徳寺の六畳のカビ臭い古アパートが僕の新しい小さな根城だった。

To be continued…


PROFILEプロフィール (50音順)

田内万里夫(たうち・まりお)

1973年生まれ。埼玉県出身。版権エージェント(現在はアルバイト)。マリオ曼陀羅の名義で画家としても活動、国内外で作品発表をおこなう。主な展示として『LOVE POP! キース・ヘリング展 アートはみんなのもの』壁画プロジェクト【キースの願った平和の実現を願って】(伊丹市立美術館・2012年)などがある。著作に『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)。本書はイギリス、台湾、イタリアでも刊行。訳書に『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED BOOKS)。


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