宮城県山元町で津波に被災した写真を持ち主に戻す「思い出サルベージプロジェクト」と、ダメージが酷く処分される運命にあった写真を世界各国で展示し寄付金を集める「LOST&FOUNDプロジェクト」。東日本大震災の後、この2つのプロジェクトに関わった写真家・高橋宗正さんが、写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)の中で綴った日記を、5回にわたり全文掲載していきます。
一度見失った「人が写真を撮る意味」を、一人の写真家が再び見出すまでの記録です。
協力:赤々舎
はじめに
人はなぜ、ことあるごとに写真を撮るんだろうかとずっと思っていた。東京の動物園にパンダが来たとき、一日中パンダのところにいて写真を撮るという仕事をしたことがある。日本に来たばかりのパンダはとても人気で、お客さんは2時間以上じっと並んで自分の番が来るのを待っていた。そして自分の番が来るとすぐに携帯を取り出し、記念写真を撮ると満足そうにその場を離れた。そんな写真はインターネットにいくらでもありそうなものなのに。地震が起きてからもう2年が経った。その間ぼくは写真について考え続け、失望し、やがてこれだけ写真というものがぼくらの人生に密着している意味を知った。世界中の人が日々似たような写真を撮り続けていることにも、同じ理由が当てはまるかと思う。書ききれなかったことも多くあるけれど、ぼくが写真というものにどう関わり、そのなかでどんなことが見えてきたのかがみなさんに伝わるといいなと思う。
2011.3.11 1日目
大きな地震が起きた。東京にあるぼくの家も数分にわたり揺れ続けた。何が起きたのかとテレビをつけると、そのなかで事態はどんどん大きくなっていった。津波が港にやってきて町を沈め、人を呑み込んでいた。それからというもの、毎日ネットや新聞には様々な写真が掲載されていった。津波が去ったあとの風景や、捜索の様子や悲しむ人の顔や遺体安置所など。被災地で何が起きているのかを伝えているかに見えた。しかしその写真たちも、数日を過ぎると似たような写真の繰り返しになった。そして気づいたことがある。写真は何の役にも立っていない。電気ガス水道のライフラインが止まり、食べ物がなく、ガソリンがなく、暖をとるための燃料もないなかで写真にできることは何もない。ただ酷い場所の姿を、酷くないところにいるぼくらに届けているだけに見えた。自分がずっと学んで仕事にもしてきた写真というものは、いざというときこんなにも役に立たないということを知り、ずいぶんと無駄に生きてきてしまったと思った。
2011.4.26 46日目
そのうちに東京の街も少し落ち着き、カメラマンとしての仕事も再開した。そしてある日、取材先の人がこんなことを言った。「今できることがなくても、現地に行けるようになったら観光に行ってお金を使ってくれば、それも十分応援になるんだよ」確かにそれもそうだと思い、ちょうどその頃テレビでやっていた、被害が少なくホテルもいち早く再開したという宮城県の松島へと友達を誘って行くことにした。インターネットで調べると、すんなりとホテルの予約をとることができた。東京から5時間ほど車に乗り、ホテルに着く頃には夜になっていた。お金を使うべく町にごはんを食べに出たのだけれど、メインストリートであるはずの駅前の道はほとんど真っ暗で、しばらく歩いてもやっている店はチェーンのレストランと地元のおじさんが集まっている、小舟という飲み屋だけだった。その飲み屋は他に客の姿もなく、いかにも仲間が集まっている感じで少し入りづらかった。どちらにしようか迷ったものの「ここまで来てチェーン店に入ったんじゃ何しに来たんだかわからないよね」と話して小舟の方に入った。扉を開けると、中で飲んでいた5人のおじさんのうちのひとりに話しかけられた。「なんだお前ら、ボランティアか?」どう答えたものかと考えていたら、友達がすかさず「違います、来てみました」と答えた。「そうかそうか、お前らちゃんと見ておけよ」とそのおじさんが言ってくれた。「野次馬に来てんじゃねえ、バカヤロー帰れ!」なんて展開も想像していたので、ぼくらはその言葉でホッとして店に入ることができた。小舟は、おじさんたちが集まって飲む場所が欲しいということで、みんなで協力していち早く瓦礫を片付けた店だった。東京でカメラマンの仕事をしていると言うと、「なんだもっと早く来ればよかったのになー、家の上に船が乗ってたりしておもしろかったんだぞ」なんてことを冗談めかして言っていた。おじさんたちはみんな明るかった。酒飲んで冗談で笑い飛ばして、悲しいことは落ち着いてからゆっくり考えるのだろうかと思った。夕方からずっと飲んでいたというおじさんたちが帰ると、お店のママが津波に流されたときのことを話してくれた。車で逃げる途中で小道に入り、そこで津波に追いつかれたこと、車は水が来るとスッと浮くこと、そこから脱出しずぶ濡れになりながら近くの建物までたどり着いたこと、とても寒い夜で見上げるとものすごい星空だったこと。「自分は生かされたんだから頑張らないと」と言っていた。
2011.4.27 47日目
次の朝、小舟に寄ってママに挨拶をしてから、前日におじさんに教えてもらった道を進んだ。どこも自衛隊の車が走っていた。海の方に向けて道を曲がり少し進むと、急に視界が開けた。海の近くにあったものはほとんど流され、平らになった場所が延々と続いていた。そこら中に潰れた車やガードレールや木や、いろんなものが転がっていた。津波はかぶったものの、流されずに残った家にはみな、何かを探す人の姿があった。天気は穏やかで、とても静かだった。カメラは持って行ったものの、その光景を前にすると自分が写真を撮る意味が全く見出せなかった。記録をしておかねばと思いシャッターを押すけれど、それが何のため誰のための記録だというのだろう。ファインダー越しに見える風景は、多少の違いこそあれ自分がネットで見た、役に立たないと思った写真にそっくりだった。この風景を忘れてはいけない、そんなことを思うのは生まれて初めてだった。それから海沿いを北上し、いくつかの町のいくつかの壊滅を見た。ぼくらにできることは何もなかった。
2011.5.4 54日目
ある日こんなツイートがまわってきた。「【RT希望】被災地の傷んだ写真と思い出を取り戻す、写真補正ボランティアやります。現地では自衛隊回収の写真を、富士フィルムの指導でボラが洗浄スキャン中。参加希望者はぜひご連絡下さい」これならば自分でも手伝えるなと思い、すぐにツイートをしていた大妻女子大学の柴田先生に連絡をした。これが、津波で流された写真を洗浄し持ち主の手に返す思い出サルベージプロジェクトに関わるきっかけだった。ボランティアの活動は柴田先生の働く大学の一室で行われていた。ぼくが到着すると、洗浄された写真をデータ化するために、スキャンではなく複写をしたいのでやり方を教えてほしいと言われた。現地ではあまり電気が使えないので、自然光で撮る方法が必要だった。基本的なやり方と必要な機材について話しているうちに、次の日に現地に行くということだったのでぼくもついて行くことにした。現場を見なければできることとできないことの判断はつかない。それからすぐに写真学校時代の先生や友達に連絡をして、ぼくの家にあったものと合わせてカメラ、三脚、レフ板など最低限の機材をそろえた。この時点では自分がどこへ行くのかちゃんと理解していなかった。
柴田先生
人はできそうにないことはすぐ諦める。柴田先生は写真洗浄の知識も、複写の知識も、ボランティアの集め方も何も知らなかった。だけど写真を返そうという思いだけはあった。そして多くの人を巻き込み一人ではとてもできないことを達成してしまった。無謀に挑むチャレンジャーが居ることで、始まることがあるということを教えてもらった。
2011.5.5 55日目 午前
次の朝早く、北へと向かう新幹線の中で気になっていたことを柴田先生に聞いた。なぜ全てが流され生活もままならない状況なのに、写真なんて役に立たないものが欲しいんですか、と。それに対する答えはこんなふうだった。「全てが流され、何も残っていないからこそ、何かひとつでも戻るものがあるととても喜ばれるんです。それは戻るということの象徴なんです」その思いは、そのときのぼくにはちゃんとは理解できないものだった。けれど求める人がいるならばしっかり手伝おうと決めた。仙台駅で電車を乗り換え、途中からは車で移動した。ぼくらが着いたのは宮城県の一番南、福島との県境にある山元町という町だった。自衛隊の車がそこら中に走っていることをのぞけば、日本のどこにでもあるようなのんびりした田舎町という印象だった。このときはこんなに付き合いが長くなる場所だとは思っていなかった。山元町に着くと柴田先生は、津波の被害にあった小学校へ連れて行ってくれた。そこにはひとりも子供の姿はなく、海が近くて立ち入り禁止地域になっていることもあり自衛隊が管理する場所になっていた。体育館の入り口に立っている自衛官さんに挨拶して中に入ると、ずらりと何列もケースが並べられていて、その中にはアルバムやバラバラになって流された写真が入れられていた。ステージの上には遺影や位牌や卒塔婆が並べられていた。ランドセルやトロフィーなどもあった。そこは自衛隊や警察や消防やいろんな人が瓦礫の中から生存者を捜す過程で発見された、誰かの思い出の品が集められる場所になっていた。柴田先生はズラッと並んだ写真を前に、「これを全部データ化したいんです」と言った。ぼくは、いくらなんでもこの量は無理だろうと思いながら、「がんばりましょう」と応えた。それからまた車に乗り、洗浄とデータ化をやっている場所に行った。そこは病院の一角にある旧看護学校兼寮という場所だった。数人の大学生とボランティアさんがいて、黙々と作業をしていた。大学生たちはみんな明るく、でも全く手を抜かずに作業していた。休みの日なのにデートも飲み会もせずに泥だらけになりながら頑張っている姿を見て、これは自分も負けてられないなぁと強く思ったことをよく覚えている。
溝口くん
作業場を案内してくれたのは、溝口くんという青年だった。彼は京都大学の院生で、震災の少し後からずっと町に滞在していろいろと作業をしていたようだった。彼はなかなか変わった人間で、大量のごはんを食べ無尽蔵の体力をもち、自分の決めたことは延々とひとりでもやり続ける、そしてコミュニケーション能力だけがすこし欠落しているものの、全国模試では何度か一位になったことのある頭脳の持ち主だった。彼が定期的に、かなり長期的に滞在していたおかげで写真の返却は滞ることなく継続していった。それは2年が経過した今も続いている。彼はこんなに山元町に来ていて、ちゃんと就職できるのだろうかとみんな心配していたのだが、今では無事に大学院を修了し研究員としてお給料ももらえるようになった。
[2/5に続きます](毎週月曜日更新予定)
このコンテンツは、写真集『津波、写真、それから』(赤々舎)の中で綴られている高橋宗正さんの日記を、
赤々舎の協力を得て、全5回に分け全文掲載しているものです。
高橋宗正『津波、写真、それから –LOST&FOUND PROJECT』
2,600円+税 | 344×247mm | 152頁 | 並製 | 全編日英併記
アートディレクション:寄藤文平
2014年2月発売 赤々舎
[Amazon / 赤々舎]
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