COLUMN

田内万里夫 SUB-RIGHTS

田内万里夫 SUB-RIGHTS
04: Cold Mountain

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海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だ。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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 まさか半年もたたずにフィラデルフィアへ帰って来るとは考えてもみなかった。思いがけない再会を、仲間たちは面白がってくれた。
「おまえにもできる仕事があってよかったよな」そう笑いながら「吸うだろ?」と、ショーンが火のついた太い手巻きの煙草をすすめてくれる。ショーンは大学時代のクラスメートであり、チョーサーの中世英語に苦戦していた僕を助けてくれた友人だ。ハードコアバンドでベースを担当しており、音楽仲間でもある。今回の渡航予定を伝えると、リビングルームのソファを寝床として提供すると申し出てくれた。同居人のケンも姿をあらわし、みんなで一服する。
「ほんとほんと、自分でもそう思うよ」
 ……犬の噛み跡だらけのソファに身を沈めて、気持ちがゆるむに任せる。闘犬種のピットブルのダドリーが、予期せぬ来客に対し低い唸り声を挙げている。久し振りの感覚に、意識がゆらゆらと解けてゆく。版権エージェンシーでの仕事に就いてからの三ヶ月弱は、とにかく目まぐるしく過ぎ去った。成り行き任せの就職だった。本に囲まれて過ごし、未知の世界で飲み歩く。確かに刺激的な毎日ではあったが、勝手が分からず、頭は常に軽い緊張状態から抜け出せずにいた。

 ニューヨークでの仕事に入る前に一週間ほどフィラデルフィアに立ち寄ってもいいかと、社長のフィーロンさんになんの気なしに訊ねたところ、彼はどういうわけか笑顔でそれを許可してくれた。その夜も杯を重ねて盛り上がり、すっかり酔いが回っていたからかも知れない。翌日、オフィスでそのことを聞かされた副社長の三輪さんは難しい顔をして口を開きかけたが、フィーロンさんに目をやっただけで、結局その場ではなにも言わなかった。
「入社したばかりなのに、いきなり休暇だって? そんな話聞いたことないから驚いたよ。とにかく、はいこれ出張の仮払金。18万円あるから」
 出発を目前に控えた日、経理の渡嘉敷さんから一万円札の18枚入った封筒を手渡された。フィリーの友人たちの顔を見ることはもうないかもしれないと半ばあきらめていたからと喜ぶ僕に、「変わってるね……」と、渡嘉敷さんは呆れたような視線を向けた。「無駄遣いしないようにね。とにかく、はじめての海外出張なんだから、まあがんばってきて」

「……というわけで、いきなり出張することになって小遣いまでもらったんだ。みんな集めて飲みにいこうぜ!」
 学生の身分には高級すぎたシーフード・レストランに仲間を集めて、ボストンあたりの牡蠣やハマグリ、それからロブスターなんかを山盛りにしたプレートを並べ、手頃なワインをじゃんじゃん空ける。言ってみれば恩返しだ。いい気分になり夜遊びに繰り出した後、部屋に帰ってまったりと煙をくゆらし音楽を鳴らし、翌日になればまだぼんやりとした頭のまま馴染みの中古レコード屋や古着屋をまわり、欲しいものがあれば躊躇わず手に入れる。友人たちにも買ってやる。財布の中身はあっという間に軽くなった。近所のパーティーに出かければあれこれ飛び交い、シラフに戻る間もなく一週間が飛ぶように過ぎ去った。
 長距離バスのターミナルまで見送りに来てくれた友人と、またすぐの再会を誓う。スーツケースとアウトドア用の大きなバッグはレコードやら古着やらでぱんぱんで、財布の中身はほぼ空っぽだ。
 二時間後、ニュージャージー州を抜けてリンカーン・トンネルをくぐり、マンハッタンのバスターミナル、ポートオーソリティに到着する。タクシーの列に並び、グラマシーパークホテルを告げる。街の景観であると同時にホテル専有の庭でもあるグラマシーパークの夕暮れの木々がシルエットとなって葉をゆらし、静かに僕を迎えてくれる。目の前にそびえるのは厳かな佇まいの、見るからに歴史あるホテルだ。幽霊が横をすり抜けていく。
 まだフィラデルフィアで石化した状態のままの僕の頭は、夢だか現実だか定まらない無重力空間をふわふわと漂っている。だらしなく口元が緩みそうになるのを我慢しながら赤い目に力を込めてチェックインを切り抜ける。部屋の鍵と一緒に、三輪さんからのメモを渡される。部屋に落ち着くと、ゆっくりと休む間もなく内線で到着を告げ、バーに降りる。旧式のエレベーターがガタンと大袈裟に揺れ、一呼吸を置いて扉が開く。
「楽しかったみたいやね。うん。でもここからは仕事だから。出版社とか、うん、エージェントとか。そう。フンフン。マイクからよろしくと。フンフンフン。はい、ではひとまず乾杯」
 翌日からのスケジュール表を手渡される。三輪さんの発する言葉は、それが日本語であっても英語であっても、どこかぎこちなく不思議な響きとリズムで、それが僕を不安にさせる。小柄でずんぐりとした、絵本に出てくるイヌイットの親父のような丸顔にゴマ塩の頭と口髭、ちょんちょん小さな丸い目が、まっすぐに僕を覗き込んでいる。ちょうど黒澤の死んだ年で、飛行機で見た『デルス・ウザーラ』という映画の、あのアジア系ロシア人ガイドを思い起こさせる。「キャピタン、キャピタン」という実直な声が、シベリアの深い森の景色と共に蘇る。薄暗い照明のもと、その表情は笑っているようにも笑っていないようにも見える。……そうか、仕事か。こちらの様子を窺う両目から逃れようと顔を逸らせば、そこはまるで映画セットのようなニューヨークの古めかしいバーだ。静かに響くジャズピアノに意識を奪われそうになる。仕事……、と意識を手繰り寄せながら目の前のカクテルを少しだけ啜り、ジンの匂いで緊張を呼び覚ます。ボケた頭が晴れるにはもう少し時間がかかりそうだ。三輪さんの口が忙しなく動き、しきりにうなずいている。両目がずっとこっちを見ている。頼むからもう少し自由でいさせて欲しい。
 翌朝、モーニングコールが鳴り、いよいよニューヨークでの仕事がはじまる。
 なにも知らない僕はただ三輪さんの後をついて行く。

 ランダムハウスやペンギン・ブックス、ワーナー・ブックス、セントマーチンズ・プレスといった大手出版社の巨大なオフィスを訪ねる。セキュリティのあるオフィスビルの回転扉を通り抜け、受付で配られた入館カードを持って足を踏み入れる。ロビーの高い天井を見上げれば、なるほどこれが摩天楼の内部かと実感めいたものが湧く。しかし、自分が身を置くべき世界とはかけ離れている気がして落ち着かない。久し振りにスーツなど着ているからかも知れない。
 出版社とは別に、リテラリー・エージェントと呼ばれる人々のオフィスも訪ねて回る。いかにも企業然とした忙しないオフィスもあれば、のどかな個人事務所といった装いの小さく落ち着いたエージェンシーも少なくない。学生時代、フィラデルフィアから長距離バスに揺られてきては時間を惜しんで歩き回ったマンハッタンを、今こうして仕事を持って歩いてみると、あの頃徘徊した街の古着屋やレコード屋、ダイナーやギャラリーなど見覚えのある景色のなか、それと知らずに通り過ぎていたビルやレンガ造りのタウンハウスのそこかしこにリテラリー・エージェントのオフィスが潜んでいたことを知る。アメリカには1,000人以上の文芸エーージェントがいるという。独立系のエージェントもいれば、アソシエイトと呼ばれる同業者のグループやエージェント企業に所属しているエージェントもいる。その多くがこの街で活動している。有名出版社のほとんどが、やはりここニューヨークにオフィスを構えている。マンハッタンこそがアメリカの出版文化の一大拠点だったことに、僕は今更のように気付かされる。今日はイースト・ビレッジ、グリニッジ・ビレッジ、そしてSOHOの界隈、明日はアップタウン。明後日はまたダウンタウン。その翌日はミッドタウン。ブロードウェイがマンハッタン島を東西に分けて貫いている。汗ばむような五月の巨大都市の雑踏のなか、本を求めてひたすら歩く。底の硬く窮屈な、履き慣れない革靴のなかで爪先と踵がずきずきと痛む。汗で濡れたシャツが肌に貼り付く。ミーティングの度に手に入れる資料や本の重さで、ショルダーバッグのストラップが肩に食い込む。
 午前中に2社、場所を変えて別の取引先とランチ・ミーティング、それから夕方にかけてもう3社。地下鉄のホームに突入してくるサブウェイの轟音に意識が遠くなる。日本と違って自動では閉まらないタクシーのドアを、つい閉め忘れては運転手に怒鳴られる。午後4社目となるミーティングの版権担当者とは、ワシントン・スクエア近くのバーで待ち合わせている。僕たちのような版権エージェントが実際に会って商談をする相手は、著者を抱えて作品を生み出すリテラリー・エージェントその人達ではなく、それぞれのエージェンシーで翻訳権などの管理をおこなうライツ・マネージャー、つまり二次利用の権利を扱う版権担当者であることが多い。「ライツ(Rights)」とは、つまり「権利」のことだ。ライツ・マネージャーを抱えるほどの規模ではない独立系の相手と会う場合には、エージェント本人から作品についての話しを聞くことができる。複数のエージェントを束ねるエージェンシーには敢えて所属せず、風通しの良い独立系の立場を好んで選ぶ文芸エージェントも少なくないらしい。バーで世間話を交わしながら商談をするような相手とは、当然のことながら気心が知れている。そんな彼等の多くが真っ先にフィーロンさんの近況を訊ねてくる。「マイクによろしく伝えてね。たまにはニューヨークにも来るように言っておいてよ」そう言って、まるでプレゼントを手渡すような親密さで、期待の高い新作を預けてくれる人もいる。フィーロンさんはある理由から、アメリカという国を苦手にしている。僕はフィーロンさんの遣いとしてこの場にいることを、なんだか嬉しく思う。運ばれてきたジン&トニックを口に含むと、一日中歩きづめの喋りづめで干からびかけていた体がアルコールを勢いよく吸収する。緑のオリーブの塩味に生気が蘇る。
 バーでのドリンク・ミーティングの後にはまたほかの相手とのディナーがアレンジされている。三輪さんが腕に巻いた派手なスウォッチをしきりと気にしている。「じゃあ、良い夜を楽しんでね」と、エージェントはそう言って黄昏時のマンハッタンの雑踏に紛れて消えてゆく。この時間はどこもかしこも渋滞で、黄色いタクシーはなかなか捕まらない。苦労して拾った空車に転がり込んで、予約のあるレストランの住所を吐き出すようにドライバーに告げる。この運転主はどこの国からやって来た人だろう。キューバ、ドミニカ、プエルトリコ……、ダッシュボードに幼い娘の笑顔の写真が飾られている。ルームミラーにぶらさがったロザリオが揺れている。荷物をおろして後部座席に身を沈めれば途端に睡魔に襲われるが、レストランのドアを開け、案内された席に腰掛けて一杯呑んで話が転がりはじめれば、その睡魔もまたどこかに身を潜める。ディナーの相手は出版社の版権担当者か、エージェントか……。メニューを広げ、その横にまたライツリストが開かれる。先ずは料理の注文を決め、それから前菜がやってくるまでのあいだに、大急ぎでリストを洗う。売り物になりそうなタイトルをいくつか手に入れた三輪さんがほっとした顔をしている。食べたことのないギリシャ料理に舌鼓を打ち、食後のコーヒーを飲むと長い一日がやっと終わる。ホテルの部屋にたどり着き、靴を脱ぎ捨て、細長いバスタブを熱いお湯で満たす束の間、上着を放り投げてベッドに倒れ込むと危うく風呂が溢れかけている。ジェル状のシャワー・ソープの使い切りのチューブが洗面所のシンクに置かれていたことに気付いて、どうせなら泡風呂にすればよかったと悔やむ。細長いバスタブに身を横たえてまどろんでいる間に、熱かった湯がすっかりぬるくなっている。大きなシャワーヘッドから勢い良くほとばしる大粒の湯で、頭と肩とを刺激する。

 モーニングコールに起こされる。一晩寝てもまだプレスの効いている厚手のコットンのシーツを足元から引っ張り上げて身を包む。脱ぎ捨てたジャケットやシャツが、ベッドから落ちて床に散らばっている。
 二度寝したせいで朝食にはありつけない。9時からのミーティングを目指して8時半、23番街の駅に降りて地下鉄を待つ。轟音。またあの窮屈な革靴を履いている。
 リテラリー・エージェントのオフィスの多くは本に囲まれた静かな書斎といった趣で、応接室に通されればそこはまるで品の良い客間だ。ただし本だけでなく原稿の収められた箱や企画書のファイルで隙間なく埋められた書棚が城壁のようだ。ここは文章を栄養とする生き物の巣だ。自分が抗原のように取り込まれていくのを感じる。この生命装置から異物だと判断されれば、僕はただ外の世界へと押し出されるのだろう。
 出版社を訪ねても、エージェンシーを訪ねても、まず手渡されるのはライツリストのプリントの束だ。最近出版されたばかりのもの、これから出版される予定のもの、フィクションであればミステリーやサスペンス、ロマンスやファンタジーといったジャンル作品、もしくはジャンル物とは傾向を異にするリテラリー・フィクション(文学作品)などにきれいに分類されている。短編集も長編小説もある。ノンフィクションであればビジネス書や自己啓発書、例えばポピュラー・サイエンスといった科学読み物、歴史書や時事物、評伝やエッセイや、メモワールと呼ばれる回想録などカテゴリーが示されている。それぞれの本のタイトルや著者名のほか、出版予定の詳細や、数行にまとめられた内容のサマリー、既にどこかの国で翻訳権が売れて契約済みの場合にはその国名と出版社名などが参考情報として記載されており、場合によっては表紙のデザインが小さく印刷されている。まだ表紙のない企画もある。僕たちは光る眼でそのライツリストをスキャンして、日本の出版社が興味を持つであろう作品を――もしくは自ら翻訳権を売り込んでみたい作品を――探し出す。可能性を感じられるタイトルに行き当たれば相手にその詳細を訊ね、プラスとなる情報が出てくれば、それがいかに些細なものであってもノートにメモを取る。
「このタイトルは映画化の権利があのピクサーに買われているから、日本でもすぐに買い手がつくはずよね」
 なるほど。
「こっちのタイトルは、前作でデビューした成長株の若手サスペンス作家の新作だけど、一切の予断を許さない見事としか言いようのない展開力で、とにかく一度本を開いたが最後、もう閉じられないローラーコースター。ちなみに出版に合わせて全国的に大きくプロモーションされることが決定している。ブレイク間違い無しのスターの卵よ」
 なるほど、なるほど。
「彼は5年前のピューリッツァー賞候補にもなったサイエンス系ジャーナリスト。専門分野は人類学と考古学。この数年はもっぱら古代の洞窟壁画に関する研究調査に没頭。共著者兼写真家としてクレジットされているのは彼の奥さん、もちろん彼女もプロの写真家。素晴らしい夫婦よ。文化の起源に迫る話に対する興味は、万国共通よね」
「フフンフフン。だけど書きぶりが学術的だとちょっと日本では難しいかもね。あ、でもランダムハウスが出版するということは、フンフンなるほど、一般書として読めるということだね。原稿がある? まだない、なるほど。ではプロポーザルを、はい、サンキュー」
  フィクション、ノンフィクションの別なく、本は「タイトル」と呼ばれ、それぞれ値踏みされる。「プロポーザル」というのはこれから書かれるべき本の情報が、ときに綿密にまとめられ、ときにざっくりと要約された企画書のことだ。「Untitled」と記された、つまりまだ題名さえ決まっていない企画も少なからずある。出版予定は……、え、2年後? 一冊の本が書かれるには長い時間が必要とされる。そのような本の卵が無数にある。
 プロポーザルやライツリストを僕たちはとにかく、とりあえず手に入れる。競合する他社の手に渡したくないタイトルなら、ずっしりと厚みのある原稿の束もその場で奪うように引き取る。その原稿の厚みの分だけ荷物が膨れ、重量が増す。
 まだ無名だがその地道な創作活動が実を結び、いよいよブレイク前夜という著者のサスペンス・アクションを紹介される。映画化権についてはハリウッドのプロダクションが既に手を挙げており、業界内では鳴り物入りだと売り込まれる。
「フンフンフン。この内容で映画化が決定なら、ハヤカワ、新潮社、文藝春秋あたりに先ず紹介して、その3社を中心に大きなオークションを仕掛けられると思う。角川書店や扶桑社なんかもいいかもしれない。おさえに二見書房とか竹書房とか、映画物の好きな出版社かな? フン、それで映画の制作はいつ始まるの? え、未定? 監督とキャストのスケジュールがまだ見えない。なるほどオーケー、大物にアプローチしているということかな? フンフン?」と、三輪さんが身を乗り出す。僕は手元のライツリストの余白に、三輪さんの挙げた出版社名や映画化の情報をメモする。映画化予定アリ、監督、キャストは未定。
「お次は……、って、これは詩集だから、まあ無理ね」と、エージェントがページを次に飛ばす。「詩集はちょっと……」と三輪さんが苦笑する。「翻訳は難しいし、そもそも詩集をやる出版社はほとんどないし、苦労して出版社を探しても前払金は安いし部数も出ないし、うん、なかなかこの商売には向かないの、詩は。フンフン」と、そう言って三輪さんがこちらを向く。そんなわけで、ライツリストに詩の本を見かけることは、ほとんどない。

イーストビレッジとグリニッジビレッジの入り口の、風通しの良いユニオン・スクエアから程近い一角に建つ古いビルにオフィスを構えるグローブ/アトランティック社を訪ねる。いかにもニューヨークの文芸系の出版社という、濃度と密度のある空間に僕はしびれる。なにしろベケットやバロウズの出版社でもある。受付で訪問を告げ、ソファで待たされていると、ほどなくして担当者が僕たちを迎えに現れる。光る絹糸の束のような金髪を長くまっすぐに垂らした若い女性だ。僕と同世代だとは思うが、背筋の伸びた堂々とした姿勢に異世界を感じる。窓が大きく日当たりの良いオフィスに通される。壁一面の本棚を背景にした彼女の大きく重厚なデスクに対し、向き合うように置かれた椅子に僕たちは腰をおろす。ドアが静かにノックされ、コーヒーカップを乗せたトレイを持った秘書が現れ、すぐに消える。
「どうだろう。そろそろうちのエージェンシーとも付き合ってもらえないだろうか? うん。知っての通り、うちの社長のマイケルほど英米の文学に親しんでいるエージェントは日本には他にいない。グローブ/アトランティックの素晴らしいリストを日本に紹介するのに、我々の仲介はきっと役に立つと思うのだけど。フフン」と、挨拶もそこそこに三輪さんが切り出し、近年の目ぼしい実績を伝える。このミーティングのためのライツリストは用意されておらず、かわりに一般向けの出版カタログが僕たちに手渡される。
「申し訳ないけど、私たちはジャパン・ユニとの仕事に満足しているの。翻訳権を扱う仕事は煩雑でデリケートだし、取り引きをオープンにして混乱を招くようなことは、少なくとも今はしたくないわね。うちとユニとはエクスクルーシブの関係を続けたいと思ってるの」
 “エクスクルーシブ”というのは一社独占という意味だと三輪さんが耳打ちして教えてくれる。対して、複数の社と付き合う形を“ノン・エクスクルーシブ”、または“オープン”と呼ぶのだそうだ。僕たちはこの権利者と、先ずはオープンな関係を築きたくてここにいる。
「それに私、実はこの夏から版権担当じゃなくて専任の編集者になるから、現状に手を入れたくないのよ。ごめんなさいね」
 彼女はニコリともせず、そう付け加える。
 お引き取りくださいというわけだ。
 オフィスの壁の目につく場所に、『Cold Mountain』という小説の、彼女の目とおなじ色の、青々としたポスターが飾られている。前年、1997年に出版され、すぐに大ベストセラーとなった。その新人作家、チャールズ・フレイジャーを世に送り出したのがこのグローブ/アトランティック社であり、その若き担当編集者が目の前で顎を突き出しているエリザベスだ。
 19世紀の南北戦争のアメリカを舞台に純愛を描いた小説で、新人のデビュー作にして、本命と目されたドン・デリーロの『Underworld』やピンチョンの『Mason & Dixon』といった大物を押しのけて、その年の全米図書賞(National Book Award)を受賞した力作だ。フレイジャーはその執筆に7年間を費やしたという。南北戦争を舞台にした小説の代表作といえば戯曲的にドラマチックなマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』だが、比べて『Cold Mountain』はむしろ淡々とした作品だ。現代らしさも感じられるが、筆致はまるでディケンズのストーリーテリングのような伝統を感じさせる分厚く迫る力強さを備えている。内戦の時代に巻き込まれ、運命に翻弄される男女の苦悩が読者の胸を否応なく締めつける。都会生まれで教養豊かだが生活力のないお嬢様育ちのエイダが牧師である父親に連れられて移住した先の田舎の村で、インマンという青年と見初め合う。戦争という大きな力に抗うこともできずに引き裂かれる若い男女の純愛物語は、出版後の一年間で100万部を超える大ヒット作品となった。生活の知恵を持たないエイダが、無教養だが純真でたくましい田舎娘のルビーに助けられながら力強い女性として自立してゆく様は健気で切ないが、同時に人生の賛歌のようでもある。戦地から故郷へ、彼女のもとへと500キロの果てしない道程を一歩々々踏みしめながら歩いて進む脱走兵のインマンが、道中の人々との出会いを通じ、また危機的な状況をかろうじて乗り越えながら逞しさを増してゆく成長のドラマも心をつかむ。このような健全さを人々は本能として求めているのだと、浮足立った先進国の90年代の終わりに証明してみせたことの価値は小さくないのかもしれない。『Cold Mountain』その後、アンソニー・ミンゲラの監督作品として映画化され、原作は更に部数を伸ばすことになる(邦訳の『コールドマウンテン』は、2000年に新潮社クレストブックスから刊行されている)。
 ミーティングの席で僕たちに冷ややかな目を向けていた版権担当のエリザベスは、昨日までは駆け出しの兼任編集者だったそうだ。しかし、この本の成功により、彼女はいまやニューヨークの第一線で輝く若手編集者の仲間入りを果たしている。
「……彼女、うん、まだ20代よ。まさにアメリカン・ドリームという感じやね。フフン。美人で社長のお気に入りだからヒット間違いなしのあの本を任されたって、そんな陰口を叩く声もある。フンフン。とにかく鼻息が荒いよね。まいったわ。え? 気付かなかった? フンフンフン?」
 ごましお頭の三輪さんはもう50代も半ばだ。小娘のような若手に鼻であしらわれたことへの苛立ちを隠そうともせず、片目でタクシーを探しながら憤っている。実りのなかったミーティングに関してではなく、彼女の無愛想な態度に対し腹を立てている。僕だってなにも感じなかった訳ではない。同世代のエリザベスの迫力にすっかり気圧され、確かにちょっと悔しい気もする。彼女の姿と小説のヒロインのイメージが重なる。あのような力強さが自分のなかにも眠っていて、それがいつか目覚める日が来るのだろうかとぼんやりとしている自分に苦笑する。夕日がマンハッタンのビル郡のガラス窓を黄金色に染め上げている。視界に「OFF DUTY(空車)」のサインを出したタクシーが現れたので、手を挙げてそれをつかまえる。三輪さんは車に乗り込みながら、まだ、なにかつぶやいている。

 日本にはフィーロン・エージェンシーのほかに主に3社の版権エージェンシーがあり、それぞれが海外の権利者を奪いあっている。フィーロンさんの会社は後発とはいえ、設立からちょうど20年を迎えている。陣取り合戦は膠着しているようだ。
 来日前はイギリスの名物編集者として鳴らしたフィーロンさんは、その実績とユーモア溢れる人柄とで日本の出版人たちにも愛されている異質な文化人といった感じだが、ビジネスの実務派というわけではないらしい。むしろ来日前のイギリスでは立ち上げた出版社で経営の失敗も経験しているそうだ。日本語もろくに話さないそんなフィーロンさんと共に、当初ふたりだけのエージェンシーを立ち上げた苦労人が、以前は商社勤めだったという三輪さんだ。フィーロンさんが苦手とする実務を担い、会社をどうにかこうにか守り抜いてきたのは自分だという自負が、三輪さんのぶつぶつとしたつぶやきから聞き取れる。もしかしたら、僕に聞かせようとしているのだろうか。
 かつてロンドンで名を馳せたフィーロンさんは英語圏のベテラン出版人のあいだでは名の通った存在だ。彼の実績を頼り、その人柄を慕って取り引きの関係を結ぶ欧米圏の出版社やエージェンシーは少なくないのだと、フィーロン・エージェンシーと提携する在ニューヨークの文芸スカウトのジェシカがディナーの席で目を細めながら、ちょっと気取ったイギリス訛りで教えてくれた。スカウトとは、クライアントである諸国の出版社や僕たちのような版権エージェンシーのために、本国の出版情報を随時レポートすることを仕事としている人々のことだ。情報だけでなく、人と人とを繋ぐスカウトの存在と役割は、このビジネスのうえで小さなものではない。スティーブン・キングのエージェントであるラルフ・ビシュナンザと旧知の文芸スカウトを雇ったライバルの日本ユニ・エージェンシーは、そのことでスティーブン・キング作品を日本で独占したそうだ。エージェントにとってはまさにひと財産ということになる。
 その夜は、僕と同世代のニューヨークの出版関係者たちとの交流の場となるディナー・パーティがジェシカの自宅で催された。そのような場に身をおくことが楽しくないわけではないが、やはり場違いな気がして落ち着かない。できることならフィラデルフィアの仲間のもとに帰ってソファに身を沈め、底なし沼でまったりしたい。どうにかパーティを乗り切り、重い夕食と社交的な会話にくたびれ果ててホテルに戻れば紙の資料が部屋中に散らばっている。シャワーでいろいろと洗い流し、階下のバーから持って上がったグラスのウィスキーを煽り、モーニングコールを予約してベッドに潜り込む。やっと訪れた静寂のなか両足の靴擦れが脈打ちながら疼く。靴下のなかですっかりヨレヨレになった絆創膏を剥がせば、皮がむけて赤い肉が覗いている。
 この二週間で、いったい何百の本の話を聞いたのだろう? 内容を正確に思い出せる本などほとんどない。無数の断片的な情報が頭のなかにこびりついて、無意味でうるさいばかりのコラージュを展開している。
 とにかく、あともう一日だけニューヨークの街を回れば次はシカゴで、そこで四泊すれば、やっと日本へ帰ることができる。五ヶ月前に僕がフィラデルフィアの大学を卒業したとき、自分はまだ卒業してもいないのに一緒に帰国すると言って聞かず、結局そのまま僕についてきてしまったガールフレンドの声が懐かしくなり、ホテルのベッドから国際電話をかけたものの彼女は不在で繋がらない。インマンのように歩いてでも彼女のもとに帰りたい。そんなことを思いつつ、むりやり目を閉じた。

To be continued…


PROFILEプロフィール (50音順)

田内万里夫(たうち・まりお)

1973年生まれ。埼玉県出身。版権エージェント(現在はアルバイト)。マリオ曼陀羅の名義で画家としても活動、国内外で作品発表をおこなう。主な展示として『LOVE POP! キース・ヘリング展 アートはみんなのもの』壁画プロジェクト【キースの願った平和の実現を願って】(伊丹市立美術館・2012年)などがある。著作に『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)。本書はイギリス、台湾、イタリアでも刊行。訳書に『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED BOOKS)。


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