去る7月、自身の作品の電子出版プロジェクトをスタートさせた作家・池澤夏樹氏。紙での出版から時を経て初めて電子化される数々の過去作品や、新たな書き下ろし作品を次々とリリースしていくこのプロジェクトは現在も着々と進行しています(2014年9月18日現在、14作品が刊行済み)。電子化のパートナーをつとめる株式会社ボイジャーのプロジェクト室室長・萩野正昭氏を迎え、池澤氏とボイジャーがともに挑戦してきた過去のさまざまな試みについて、そして池澤氏が近年編集に携わる「世界文学全集」「日本文学全集」(ともに河出書房新社)と「個人全集」としての性格を持つ今回のプロジェクトの共通項についても語って頂きました。
【以下からの続きです】
池澤夏樹×萩野正昭 1/3「コンテンツがメディアを要請する瞬間。」
★この対談の直前に行われた、池澤夏樹電子出版プロジェクトの記者発表レポートはこちら。
大きな無限の図書館をつくる
――必ずしも“コンテンツがメディアを要請”しているとは限らないものも含めて、このタイミングで「電子出版を本格的に行うなら今だ」と思った理由をお聞かせいただきたいです。
池澤:実際、振り返ってみれば、過去に出した自分の本の中で現在は手に入りにくくなっているものがあります。出版社が市場にその本を出しているかどうかということですけれども、「すみません、品切れになっているのですがそのままにしていました」ということも少なくない。例えばAmazonのマーケットプレイスで買うことはできるけれども、ぼくにとっては経済的に何のメリットもない。そういうこともあって、自分の書いたものは常に世の中に手に入る形であってほしいという気持ちが強くなりました。
電子出版のメリットはわかっていた。ただ、先に述べたいくつかの試みでその限界もわかっていました。一つのきっかけはKindleでしたね。もう5、6年前ですか、英語版のKindleを買って使ってみた時に「これくらい読めるならいいじゃないか」と思ったんですが、そのうち発売された日本語版は、使ってはいるけれどもやはり使いにくい。1回さっと読み終わってそれでおしまい、というミステリーとかならいいけれども、深刻な内容のものを読むとなるとやはり紙の本が欲しくなります。そうした実感の中で、きっちり電子出版として出すのであればボイジャーと一緒にやりたいと思ったんです。
――ちなみに今おっしゃっていた、やはりKindleを使っていて使いにくいと思われるのはどんなところですか?
池澤:ぼくはあまりKindle Paper Whiteのあの色があまり好きではないんです。前に戻って参照するのがむずかしい。感想を書き込めない。それから、画像に弱いでしょう。ぼく自身もずいぶん写真を撮ってきましたし、写真家と一緒に出している本も多いんですね。
萩野:先ほど、OSやハードに依存しなくてはならない時期が長かったという話をしましたが、Webブラウザが電子本リーダーとして使えるんだ、というのがはっきりしてきたということがボイジャーにとっては非常に大きなことでした。AppleはApple、AmazonはAmazonで各社それぞれの電子本リーダーを持っていて、それを消費者がダウンロードして読む。だけどWebブラウザはパイが全然違いますよね、すべての人がそれでWebページを見ているわけですから。それを使って電子本を読めるようになるということは、非常にニュートラルな状況になってきていると思うんです。
ボイジャーがWebブラウザで電子本を読めるシステム(※編集部注:「BinB」=Books in Browsersのこと)を発表した頃は本当におっかなびっくりで、あの頃はまだ「地下鉄に乗っている時はどうするんだ」とか言われることもあったんですが、今はだいぶ状況が変わって、そういう時代の趨勢です。東京国際ブックフェアや国際電子出版エクスポでは、あらゆる企業がブラウザベースのリーダーの発表をしていますよ。そういう意味でブラウザベースの電子本プラットフォームやリーダーが定着しているというのが大きな力なのではないかなと思います。
――つまり、WebブラウザというのはかつてのOSやハードのように取り替わるものではなく、ある種定着したということでしょうか。
萩野:そうですね。厳密に言うといろいろあるでしょうが、やはり現行の会社ごとの電子本リーダーは各々でまったく状況が違いますね。
――Webブラウザがなくなるということは当分ないだろうとぼくも思うのですが、一方で、今流行っているサービスは必ずしもブラウザベースではないですよね。人が使う時間という意味では明らかに、Webブラウザから単体アプリケーションに流れているかと思います。例えばLINEに代表されるようなクローズドなコミュニケーションは、パーマリンクさえ持たない。そのあたりは、ボイジャーとしてはどういう風にお考えですか。
萩野:コンテンツの中身というのは、あくなき高度化、リッチ化をしますよね。つまりどんどん欲が出てきてどんどんお金をつぎ込んでいくことになる。昔は「我々のやっていることはあくなき映画の道を辿る」とか言っていましたが、その中で“1対マス”という状況を作り出していくこと、それがビジネスの道だと。しかしやはり本はそういうものとは少し違っていて、リーズナブルなお金でもって、多様な読者を持っている、だからこその良さがある。そういうことをぼくは大事にしていきたいんです。
だから、ビジネスのことを考えるならよりリッチなコンテンツを作って驚かせるという、たくさんの人に向けた商売になると思うんですけれども、やはりやっていることが「本」なんだということが大事なんです。
池澤:ぼくから少し付け足しますと、本というのは非常に特殊な商品で、極端な少数生産販売なんです。ラーメンがヒットしたら毎月100万食でも作って売りますよね。しかし本はそんなことができなくて、非常に選択の範囲が狭い。「チキンラーメンがないからサッポロ一番でもいいや」という風にはなっても、「(村上)春樹がないから龍でいいや」という風にはならない。それくらいセレクションが狭い特殊な商品が本なんです。だから大きな企業がガバっと作って一気に売って、マーケットをガサっと征服するということはない。非常に細かいところを丁寧に作り、少数なしかし熱心な読者にたどり着くようにしてやっていく、ということになります。だから電子出版になったからといって、(初版)5000部クラスの作家が5万部になるはずがないんです。
だけど、とにかく取り次ぐことはできる。そしてラーメンや紙の本とは違って永遠に在庫が利くし倉庫もいらない。それも重要なことなんです。だから、言ってみれば「無限に大きい図書館を作って、読むためにお金を払ってもらう」という感覚ですね。“ずっと取っておくことができる”というのは、「倉庫」じゃなくて「図書館」と言う方が、入場料はちょっとかかるんだけれども、しっくりきます。
“全集にする”こと/“全集で読む”ことの現代における意義
――今回の電子出版プロジェクトは来年くらいまでかけて続け、最終的にはご自身のほとんどの作品を出されるということでしたね。池澤さんの著作の中ですでに手に入らないものを、デジタルアーカイブとしてすべて残すという当プロジェクトには、「個人全集」というもののあり方をアップデートする、という狙いもあると思います。
“個人全集を読む”ということや、“その作家の発言がアーカイブされていて全部読める状態にある”というのは、読者にとってどういうことなのか。文学全集が紙であまり出版されなくなっているということは、もちろん紙の出版自体が大変ということもあると思いますが、そもそも全集を買うような人が減っているということもあると思うんです。ただ個人的には、全集ならではの良さや面白さも必ずあると思っていて、そのあたりについてのお考えをお伺いしたいです。
池澤:「全集」という言葉は難しくて、“全部集めた”という意味での「全集」は漱石など文豪のものくらいしかありません。断簡零墨(だんかんれいぼく/断片的なメモなどの文章)と呼ばれるものまですべて集めて作っていたのは昭和30年くらいまでですかね。その後の時代はだんだん「全集」とは言うけれども、代表作を並べただけのものになっていきます。
文学全集というのはたぶん日本だけの出版形態なんです。フランスでは「全作品集」というような言い方の個人全集をよく出しますけれども、実際にはその人の作品を同じ装丁でずらっと並べたものがそれにあたります。出せるものから出していき、あまり売れなくなったらそれでいいや、といった風な形態が多い。日本のように編集を一通り終えてから「全◯巻で出します」と告知をして発売する例は、おそらく他の国ではあまりないと思います。本当の古典は別ですよ。「シェイクスピア全集」といったものは外国でももちろんありますが、それに対して、文学全集という形で名作を集めて刊行するのは日本のある時期の文化だった。だから1980年代あたりで消えてしまった。
一つには、本に対して、人々の興味関心や好き嫌いの幅が増えたということがあります。昔は多くの人の中に教養主義の向上心があって、「これを買って読んだら俺は一級上の人間になれる」ということで何十巻もの全集がセットで売れていた。戦後非常に悪かった住宅事情が良くなってきて、家に本棚が置けるようになった。本棚を置くと、そこに何か並べた状態を眺めたくなる、ということもあったと思うんです。それに、日本人は“セット”が好きで、「30冊、これで全部です」と言われると、「そうなんだ」と言って買ってしまう……お雛様と一緒です(笑)。それもあって『世界文学全集』(池澤夏樹編、河出書房新社より2007年から2011年にかけ刊行、全30巻)も比較的よく売れたんですね。
また、ある作家の熱心なファンがその人の個人全集を買うという流れが昔はあったけれども、最近はみんなそれほど熱心じゃないですよね。例えば、丸谷才一は現代日本文学で非常に重要な作家だと思いまけれども、重要な作家であるというだけでは全30巻の全集は出せない。それが今の時代の出版事情です。ぼくの場合も(紙で出そうとすると)他で手に入りそうな作品は外し、エッセンスだけを残したら、おそらく全10冊くらいになると思います。ましてぼくは丸谷さんみたいに偉くないですから、正直な話、そんなに立派なエディションで並ばなくてもいいとも思った。
だからそこは少し軽く、しなやかに対応していっていい。電子出版で全集を出して、その中ですごく気に入ったものがあったら紙の本で探すというのもありでしょう。このままいくと、ぼくの本はぼくと一緒に加齢していくばかりなので、若い方にファン層を広げていくためには別のメディアが必要だという考えもある。そのあたりが、今回のぼくたちの密かな野心です。
――必ずしも、端からすべて読んでほしいというわけではない、ということですね。
池澤:そんな大それたことは思っていないです。ぼくらはどんな本についてでも、自分の著作をマーケットに置いて、読者の手が届くようにしたい。その先は読者に任せる、それでいいわけです。
それから、他の作家がどんどんボイジャーに電子化の相談をしてくるようになるという風になるのも楽しみにしています。それはぼくに何のメリットもないし、裏契約もしていない(笑)。さほど熱心に他の作家を勧誘するつもりはありませんが、このプロジェクトによって敷居が低くなって「電子版はボイジャーから出すといいみたい」という噂が広まってくれたら、なかなかおもしろいと思います。
――今まで池澤さんが著作を出す際に出版社から提案された電子化の契約は断ってきたというのには、「電子出版に対して本気ではないのではないか」という思いがあった、という風に記者発表でおっしゃっていましたが、今そのようにして電子化の権利がすべて池澤さんの手元にあるからこそ、まさに全集のように、同じ体裁で出すことができる。このことは大きなメリットだと思うんです。
ただ、今“この指止まれ”と言った時に、他の作家は同じように電子出版を始めることはできるのでしょうか。出版社からの電子化の提案を承諾してきてしまった方が多数なのではないか、とも思うのですが。
池澤:そうですね。それははっきり言うと出版社の方もずるくて、作家がよくわからないうちに電子化を進めてしまっているところも実際あるらしい。新人作家に対して「電子化の契約もしないとうちから紙の本は出しません」と言ったりとか。しかしその一方で、それなりに自立されている作家の方たちはそうでもないんですね。「この作品なら地味なものだから電子化してもいいよ」という風にしか電子で出していない方も割と多いんです。
[2/3に続きます]
聞き手:内沼晋太郎 / 構成:後藤知佳 / 編集協力:隅田由貴子 / 撮影:祝田久(ボイジャー)
(2014年7月1日、国際文化会館にて)
『イラクの小さな橋を渡って』
9月18日発売
2002年秋、米軍の攻撃が開始される直前、池澤夏樹はイラクにいた。豊かな文化を物語る遺跡を巡り、陽気な人びとと出会い、滋味深い食べ物に舌鼓を打った。
どうして私たちと同じ普通の人びとの頭上に爆弾が降ってしまうのか……?
著者が見た、ありのままのイラクを写真と文章で綴るエッセイ。 ◎ボイジャーの公式ストア「BinB Store」ほか、各種電子書籍ストアにて販売中。
◎池澤夏樹の電子本「impala e-books」特集ページはこちらからどうぞ。
(全14タイトル配信中、今後も続々刊行予定)
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