若い書き手たちが中心となって企画された評論集『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)が、2月21日に発売された。著者のなかから、1980年代生まれという共通点を持つ文芸評論家の川本直氏、批評家・映画史研究者の渡邉大輔氏、フリーライターの宮崎智之氏の3人に出席してもらった座談会の前編では、それぞれの吉田健一に対する想いが語られた。後編では、さらに「なぜ、いま吉田健一が読まれるべきなのか」について踏み込んで議論する。吉田健一が提示する、閉塞した日本社会や文学の現状を打破する処方箋とは?
2019年の吉田健一 〜欲望系と教養主義
渡邉大輔(以下、渡邉):川本さんが前編の最後で指摘した80年代からゼロ年代にかけての批評のある種の隘路のように捉えられる側面も踏まえつつ、なぜいま吉田健一が読まれるべきなのか。と、そこにいく前に僕が触れておきたい魅力というと、そもそも単純にかわいいんですよ、吉田健一って(笑)
宮崎智之(以下、宮崎):はい(笑)
渡邉:思えば、僕が吉田にハマった理由の一つは、そこですね。
宮崎:あと、犬が好きなのもいいですね。僕も犬好きなので。
渡邉:ああ、そうですよね。
川本直(以下、川本):すごく大人なのに子どもみたい。
渡邉:卵が割れなかったという有名なエピソードもありますよね(笑)。そんなチャーミングなところというのも、やっぱり吉田の魅力だと思います。
ここで話を戻して、僕もまた、ゼロ年代以降の批評や文化史の大きな流れの中で、吉田の仕事を改めて位置づけてみたいと思います。その時に一番重要なのは、現代では「大きな物語」というか、みんなで沸き立つような普遍的な基準みたいなものがなくなり、誰もかも、絶対に信じられるような共通前提がなくなってしまった、ということ。そういうシニカルな相対主義に溢れたポストモダン的な世界の中で、「吉田健一的な佇まい」というのが、ある意味ですごく魅力的になっている、とは言えると思うんですね。
2018年の年末にNHK Eテレの番組「100分de名著」でスピノザの『エチカ』をやっていて、哲学者の國分功一郎さんが解説をしていました。その國分さんも2011年に『暇と退屈の倫理学』という本を出しましたが、ドゥルーズにも通じる、スピノザ的な『エチカ』=倫理みたいなものがすごく大衆的なリアリティを持ってきていると感じます。つまり、ある種の普遍的で抽象的で観念的な倫理とか基準みたいなものが誰の目にも信じられなくなったときに、「自分の情念とか欲望に忠実に生きてみましょう!」というポジティヴなメッセージですね。
かたや、特に震災後の日本でいうと、主に若い世代の関心に訴える、ある種の抽象的で観念的な「ゼロ年代批評」みたいなものの魅力が相対的に落ちて、主に二つの知の方向性が顕著になっているように感じます。一つは、いわゆる「運動の思想」ですね。「とにかく街頭に出てデモでもやらないと始まらない」みたいな、SEALDs的な主張です。そういうある種の身体性や運動性に回帰していったっていう流れが2010年代半ばくらいまであった。
ただ、ここ数年でいうと、そういった「運動の思想」みたいなものも一度落ち着いてきて、今度はもう一つ、ある種の新しい「教養主義ブーム」みたいなものが出てきた気がしています。千葉雅也さんの『勉強の哲学』や、マルクス・ガブリエルの本が売れる現象も、その一つ。ともあれ、いわゆる「ゼロ年代系」、「セカイ系的」なものが終わった後に、「動かないと始まらない」みたいな運動系の思想がきて、そのあとにいま、ある種の新しい文化系・教養系みたいな流れが来ている。
その時に、吉田という存在は、いわばスピノザ的な欲望系と、新たな教養主義の両面を体現しうるわけです。一方で「美味いものは美味い」みたいな同語反復の肯定の思想があるとともに、他方ではそれらが古今東西の圧倒的な教養にも支えられているという。そういう吉田健一の持つ二面性に、2019年の現実がすごく合ってきた感じがします。実際、僕も今回の評論集に参加したことで、久しぶりに吉田の著作をまとまって読み直す機会を得ましたが、とても新鮮な感じがしました。昔の本という気が全然しない。
川本:しないですね。
渡邉:ですので、この本、けっこう売れるのではないか? と(笑)
具体的な欲望から発せられる言葉
宮崎:吉田のエッセイ「わが人生処方」を読んでいてハッとしたのは、そこで吉田は原稿料の話をしていて、食うために働くっていうけど、その「食う」というのは何なんだと問うわけですね。文章家に限らず、会社員の方も食うために働くって言うわけじゃないですか。でもその食うっていうことを具体的に考えて働いているのか、と。俺はどこそこの生牡蠣食いたいと思って原稿を書いているんだ、と吉田は言う(笑)
川本:あと、友人を呼んで酒を飲む。
宮崎:そう。つまり、具体的なイメージがあるらしいんですよ。でも僕らはやっぱり食うためって言うと漠然と家賃を払うとか……、少なくとも「なんとか暮らしていかなければ」くらいの感じで「食う」という言葉をとらえている。でも、吉田は違うわけですよね。本当に具体的に生牡蠣食いたいと思っているし、そうしたことをイメージできない奴は仕事に関しても信頼できない、美味いものを美味いものとしてちゃんと食べない奴が仕事になったら注意深くなるとは思えない、みたいなことを他のエッセイにも書いている。
もちろん、本当に食べること、暮らしていくに困っている人もいます。でも、その場合も「できれば、カツ丼を食べたいなあ」と思うかもしれない。そういう欲望を吉田は肯定する。
川本:私たちが若い頃に読んでいた日本の批評のほとんどが観念的で、世俗否定じゃないですか。しかし、吉田を読むと「あ、世俗っていいな」ってにっこりとしながら思ってしまうんですよね。しかし、それは「俗物」といった意味合いではなく、根源的なことです。吉田を読んでそういう風に考えられたのは、自分の人生にとってプラスですね。
あと、日本近代文学の有名作家って、情緒不安定で自意識過剰か、健康なのに情緒不安定を気取ろうとしているか。このどちらかのパターンの人が多い。しかし、吉田はストレートに健康です。朝も家族の誰よりも早く起きて雨戸を開け、犬を連れて子どもを小学校へ送り、それから執筆を開始して昼寝を挟んで夜までずっと書いている。外出は週に一度、木曜日しかしない。作家というのはそういうふうに家に籠もって書く地味な仕事なので、文化系の持つデカダンな幻想は、木っ端微塵になるしかない。
宮崎:そういうところも意外と現代的だと思うんですよね。デカダン的な幻想ってもうなんか違うな、とみんな思い始めているじゃないですか。やっぱり健康は大事だよ、みたいな。
“若手ブーム”と日本の黄昏
川本:私は吉田を読んでいると、年を取るのが楽しみになるんです。どんどん無駄な欲や雑念が取れていき、素直になって可愛いおじいちゃんになりたいなと思います。
宮崎:吉田の評論「余生の文学」には、「余生があってそこに文学の境地が開け、人間にいつから文学の仕事が出来るかはその余生がいつから始まるかに掛っている」と書かれていますよね。吉田は青春を毛嫌いして、とにかく早く成熟したいと思っていました。
渡邉:20世紀の精神史みたいな大きな話に広げるとすると、三浦雅士さんが昔、『青春の終焉』という評論も書いていましたが、「青春」という概念自体が非常に近代的というか、20世紀的な現象だったということがだんだん実感を持ってきているのだと思います。ジェームズ・ディーンに象徴されるアメリカのティーンエイジャー文化も含めて。いまや、20世紀的な時代精神としての「青春」が機能不全に陥ってきて、子どもか老人の二種類しかいないという世の中になってきている。その中で、吉田的な「余生の倫理」みたいなものがすごく胸に迫ってくるという状況がある。
ここで、少し僕の個人史的な話をさせてもらうと、僕は批評家としてのデビューがわりに早かったんです。大学を出てすぐの22歳の時に書いた評論で、23歳でデビューしました。僕が商業誌で仕事を始めた2000年代前半から半ばにかけては、全体的に「若手論客ブーム」みたいな時期でした。
もともとその頃は東浩紀さんや宇野常寛さんを筆頭とした「ゼロ年代批評」と呼ばれるサブカルチャー評論が盛り上がっていた時期でしたが、それ以外にも荻上チキさんとか濱野智史さん、西田亮介さんとか20代で論壇に颯爽とデビューする論客が目立っていた。それは評論家や学者だけじゃなくて、文学方面でも金原ひとみさんと綿矢りささんが史上最年少で芥川賞を取ったり、西尾維新さんや佐藤友哉さんが20歳でデビューして注目を集めたり。そんな状況の中で、僕らの世代の文学とか批評をやったりする人間って、とにかく若くしてデビューしないと意味がないんだみたいな切迫感がなんとなく共有されていた気がします。
川本:ありました。
渡邉:でも、なんかそういうものがふっとなくなったときに、これからどう歳を重ねて行くかという新しい問題が生じてきたのです。「あれ? 人生って俺が思っていた以上に長いな」って(笑)。
宮崎:今も「若くデビューしなくちゃ」という感覚はあると思うんですよね。原因の一つはSNSの普及。才能を見つけるのが容易になり、自分が見つけられてないならば才能がないんじゃないか、と思ってしまうムードは、ライターの世界にもあって。そうなると目立たなきゃ、とにかく尖ったもの書かなきゃ、みたいな川本さんの言う根源的ではない方向に行っちゃいがちなんですけど、吉田を読むと「どかっと構えときゃいいのかな」と思えてくる。
川本:そうですよね。SNSで才能を認められなくちゃ、と頑張っている若い人たちは焦らなくても大丈夫です。吉田なんか単著デビュー37歳ですからね。
宮崎:実際、これから日本社会もどんどんどんどん老いていくわけです。さっき、お子さんと老人しかいなくなるって話がありましたけど、15歳未満の子どもより、犬猫の推計飼育数のほうが多いらしいんですよね、今の日本は。
渡邉:それはリアルだなあ……。
川本:吉田の著作で言えば、まさに『ヨオロッパの世紀末』。日本が黄昏はじめている。
渡邉:「日本の黄昏」っていうのはほんとそうですよね。
川本:大丈夫ですよ。『ヨオロッパの世紀末』で吉田は、ヨーロッパは黄昏の19世紀末に復活したと言っているので。いずれ陽はまた昇る。自分の生活を充実させて、日本の黄昏を愛でつつ、夜明けを待てばいい。過激な思考に走らず、踏みとどまるのが肝心です。
宮崎:そのなかで我々日本人から見てヨーロッパ文化がまだまだ重厚に見えるのは、やっぱり黄昏を何度も経験しているからなんでしょうか。
川本:ですね。吉田の小説で言うと『金沢』あたりはそれに近いですね。悟りの境地まで行っちゃっていますから。
渡邉:成熟も成熟。僕の評論では、後期の熟成したワインのような文章で綴られている『時間』を取り上げました。内容を紹介したいところなんですが、『時間』というテキストは、要約できないわけですよ。抽象化できない。読むごとに『時間』という文章そのものを読者が生き直すというか、その内容と文体、コンテンツとスタイルが不可分に一致しているっていう摩訶不思議な文章なんですね。
宮崎:無理やり要約するならば、「時間は時間そのものである」(笑)。
渡邉:それだけで終わりですからね(笑)。同語反復の文章がひたすら続いていくっていう。だから、僕の今回書いた原稿も内容要約するっていうよりもある一節をそのまま抜き出して論じるというやり方で書きました。とにかく論じるにはなかなか難儀なテキストではありましたが、吉田の一つの到達点として、やっぱりぜひ読んでほしいですよね。
「一生かかって読む吉田健一」
宮崎:僕が評論を担当した初期随筆と、『時間』に代表される後期の作品を比べると、主義主張は一貫しているのに、成熟って意味では凄みが増してくる。それが読んでいてわかるから、その時はピンとこなくても「まだ自分の成熟が足りないだけ」っていう風に割り切れるところがあるというか。「この人は一読者として信頼して長く寄り添えるな」と思える。だから、僕たちの評論集を読んで少しでも興味を持ってくれた人は、ぜひ吉田に触れてほしい。
渡邉:そう。できれば、何回も読んでほしい。吉田の本は、どこから読んでどこから終わってもいい。自分の好きなところから好きなだけ読む。そういう食べ物みたいな味わい方ができる本なので、「10分でわかる吉田健一」とかではなく、「一生かかって読む吉田健一」(笑)。
宮崎:いいですね(笑)。たとえ、その時はしっくりこなくても、人生のターニングポイントで吉田のことを思い出すかもしれない。そして、一生寄り添っていくことができるだけの強度が、吉田の著作にはあると思います。
川本:著者は吉田健一と交流があった80代の富士川義之先生から20代までいまして、職業もバラバラ。これはわざとそうしたんですけど、小説家の方もいれば、評論家の方もいれば、映画監督の方もいれば、ライターの方もいれば、SFが専門だったり、映画が専門だったりする。この本でデビューする人も二人いる。
吉田は気負うとかそういうことと無縁の人なので、『吉田健一ふたたび』自体も、吉田のようにお酒が飲める人なら、お酒を飲みながらだらだらと読んでいくうちに血となり肉となりますし、お酒が飲めない人ならお行儀が悪いですが、ご飯でも食べながら、もしくは寝っ転がりながらだらだら読んでもらいたいですね。ぜひ、味わいながら、ゆっくりゆっくりと楽しんでください。
(おわり)
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・川本直(かわもと・なお): 1980年生まれ。文芸評論家。『新潮』『文學界』『文藝』などに寄稿。著書に『「男の娘」たち』(河出書房新社、2014)がある。現在、フィルムアート社のWebマガジン「かみのたね」で『日記百景』連載中。
・渡邉大輔(わたなべ・だいすけ):1982年生まれ。批評家・映画史研究者。跡見学園女子大学文学部専任講師。日本大学藝術学部非常勤講師。専攻は日本映画史・映像文化論・メディア論。2005年に文芸評論家デビュー。以後、映画を中心に純文学、本格ミステリ、アニメ、情報社会論などを論じる。著書に『イメージの進行形』(人文書院、2012)。共著の近刊に『川島雄三は二度生まれる』(水声社)、『スクリーン・スタディーズ: デジタル時代の映像/メディア経験』(東京大学出版会)、『アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門』(フィルムアート社)がある。
・宮崎智之(みやざき・ともゆき):1982年生まれ。東京都出身。フリーライター。地域記者、編集プロダクションなどを経て、フリーライターに。カルチャーや男女問題についてのコラムのほか、日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。TBSラジオ「文化系トークラジオLife」にレギュラー出演中。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫、2018)など。
(文・構成:興梠旦)
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