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古賀稔章 未来の書物の歴史

古賀稔章 未来の書物の歴史
第5回「グーテンベルクかディドロか(前編)」

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第5回
「グーテンベルクかディドロか(前編)」

 
 私たちは普段、当たり前のように携帯電話や電子書籍を使っているにもかかわらず、それを発明した生みの親が誰なのかと問われて、すぐさま答えられる人はそう多くはないだろう。けれども、活版印刷術を発明したのが誰かと問われると、それがヨハネス・グーテンベルクである、ということは、広く一般にも知れわたっている。現代では情報化社会の恩恵を受け、オンライン上で公開されるデジタルギャラリーを通じて、グーテンベルクの『42行聖書』のページに、私たちはごく簡単にアクセスすることすらできるようになっている。

ヨハネス・グーテンベルク

ヨハネス・グーテンベルク『42行聖書』[Wikimedia Commons より]

 しかし、グーテンベルクの発明した活版印刷術という技芸それ自体については、少数の限られた人々のあいだで秘匿され、工房内で徒弟制度の中でのみ伝授されていた「秘密」として扱われていた時代から、広く万人へと公開される「有用な知識」として扱われるようになるまでに、実はずいぶん長い時間を待たねばならなかった。知識の社会的位置づけを主題にした『知識の社会史』のなかで、文化史家のピーター・バークは、印刷というメディアの重要性として「知識を広めたり、比較的個人的な知識や機密の知識をも公的領域へと組み込んだ」点を真っ先に挙げているが、バークが同書で対象としている時代を「グーテンベルクからディドロまで」とした点は、とても示唆的である。1450年頃のグーテンベルクによる活版印刷術の発明から、18世紀半ばのディドロの『百科全書』における印刷技術の実態の文書と図解による公開に至るまで、という300年ほどのタイムスパンでみたときに、印刷術(とその扱われ方)にどのような変化が起きたのであろうか。その印刷術に起きた変化を概観しておくことは、知識が社会のなかで「秘密」から「有用な知識」として公共的なものになるまでの時代の変化を理解するうえでも、きっと参考になるだろう。

 印刷術が発明された初期の過程をたどるうえで、まずは、グーテンベルクの謎多き前半生をひもといてみることから始めよう。今日まで伝わっているグーテンベルクに関する事実関係の記録は、28の法的文書などからなる、通称「グーテンベルク・ドキュメント」として、20世紀前半頃までに研究・整理がなされている。それらの文書の原本自体は1870年のストラスブルグの火災で焼失しているため、記録文書の一部についてはフィクションであると疑う説すら存在してはいるものの、私たちは基本的に、この「グーテンベルク・ドキュメント」を通じて、グーテンベルクの生涯の足跡をたどることができるのである。

 15世紀半ばの印刷術の発明以前のグーテンベルクは、必ずしも書籍発行や製紙業などの出版関連の仕事に従事していたわけではなかった。1430年代のシュトラスブルク在住時に、グーテンベルクは同地で金銀細工職人のギルドに所属していたことが知られている。シュトラスブルクを拠点にして、彼は何名かの出資者とともに、当時アーヘンに押し寄せていた膨大な巡礼者に販売する金属製凸面鏡付きの巡礼記念バッジを大量生産するための共同事業体を立ち上げていた。印刷術の発明者としてのみグーテンベルクを知る立場からすれば、鏡というと、若干かけ離れたもののように感じる人もいるかもしれない。けれども、このアーヘン巡礼の鏡は、約10万枚とも言われる大量の数を鋳造していた「複製技術」による製品であり、また、活字鋳造と同じ鉛、錫、アンチモンを混合した材料を用いていたという点でも、その後の活版印刷術につながる布石となったと理解できるものである。また、アーヘン巡礼の鏡にビジネスチャンスを見出したグーテンベルクの姿からは、活版印刷術を研究・開発する寡黙な職人というよりも、むしろ、今日的に言えば、技術を元手にしたアクティブなベンチャー起業家のような印象を感じさせはしないだろうか。そうした彼のビジネス面での旺盛な活動は、結果的に、彼の名前が記された金銭の貸し借りや訴訟などのさまざまな記録を通じて、その発明の初期段階において、活版印刷術がいかに扱われていたのかを知るための手掛かりを、私たちのもとに残してくれているのである。
 例えば、1438年のクリスマスに、グーテンベルクの事業の提携者であったアンドレアス・トリツェーン(Andreas Dritzehn)がペストで急逝すると、グーテンベルクはアンドレアスの弟たちや相続人を提携者とすることを拒絶し、そのことによってグーテンベルクは彼らから訴訟を起こされた。その1439年の訴訟の記録では、30人以上の証人たちが供述を残しているが、とりわけグーテンベルクの召使いローレンツ・ベルデックによる証言は、彼の主人が用心深く、自分の取り組んでいた印刷機を誰にも見られずに秘密にしようと試みていたことを伝えている。アンドレアスの死後まもなく、グーテンベルクはアンドレアスの弟クラウスの家に置かれていた印刷機のもとに、ローレンツを使いに向かわせたようだ。その際に、ローレンツはクラウスに「彼のもとにある印刷機を誰にも見せてはならない」と伝え、またクラウスに、印刷機のところに行って2本のねじによって開き、部品をバラバラに取り外して、それらの部品を印刷機の内部や下に置き、「誰もそれを見ることや理解することがない」ようにするよう念を押した、との証言を残している。

 こうしてグーテンベルクが発明したとされる活版印刷術の核心部は、今日で言えば、機密文書をシュレッダーで粉砕するかのように、人目に触れないようバラバラされてしまった。そのために、初期の印刷機のかたちが実際にどのようなものであったのかについては、当時も現在も多くの謎に包まれたままになってしまったのだ。しかし、印刷術のミステリーそのものを追うことは、ここではさほど重要なことではない。私たちがこのローレンツの言葉から確認できるのは、15世紀初頭のグーテンベルクの時代において、印刷機という発明が、「誰にも見せてはならない」ほどの秘密として、慎重に少数の人間に囲い込まれていたものだった、ということの決定的な証言なのである。
 この時代の活版印刷術が、当時も今も隠された秘密であるならば、その後の世の人たちは、それがどのような技術であったのかを、いかにして辿ることができるのだろうか。印刷機、活字鋳造術、インクの製法、さまざまな道具類などからなる活版印刷の技術体系の全体像が、初めて詳細に言葉によって記述されることになるのは、それから約250年ほど後になってからのことであった。

後編に続きます(2013/12/20更新)

参考文献:
慶應義塾図書館デジタルギャラリー「42行聖書」(マインツ、42行聖書の印刷業者[ヨハン・グーテンベルク]印行、[1455年頃])
秋山聰「複製品にどのように聖性が宿りうるのか–グーテンベルクと鏡付き巡礼記念バッジをめぐって」『西洋美術研究』11号,pp. 94-107,2004年
Douglas C. McMurtrie, Karl Schorbach, The Gutenberg Documents: With Translations of the Texts into English, Oxford University Press, 1941.
Hessels, Jan Hendrik, The Gutenberg fiction, London: A. Moring limited, 1912.
Henri-Jean Martin, The History and Power of Writing, University of Chicago Press, 1995, pp.216-219.


PROFILEプロフィール (50音順)

古賀稔章(こが・としあき)

1980年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、同博士課程在籍。研究対象はルネサンス・初期近代のタイポグラフィ、書物の文化史。2004~2009年、デザイン誌「アイデア」の編集に携わる。2011年より批評的議論のためのフォーラム「何に着目すべきか?」を協働で企画。編集した主な美術・デザイン書に『ハンス・ウルリッヒ・オブリストインタビュー Vol.1 (上)』(Walther König)、『One and three books 一つと三つの書物』(limArt)など。共訳書に『オープンデザイン』(オライリー・ジャパン)。