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古賀稔章 未来の書物の歴史

古賀稔章 未来の書物の歴史
第3回「自然という書物(前編)」

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第3回
「自然という書物(前編)」

 
 「巨人の肩の上に立つ」という言葉をニュートンが用いたのは、「フックの法則」にその名を残す、17世紀のイギリスで活躍した科学者ロバート・フックへと宛てた手紙においてであった。1676年2月5日付けのその有名な手紙は、科学雑誌「フィロソフィカル・トランザクションズ」にニュートンが発表した「光と色についての新理論」に端を発して、ニュートンとフックの両者のあいだで繰り広げられた光学論争に、束の間の和解をもたらすことになった。フックから休戦の申し出の手紙を受け取ったニュートンは、その返答として送った書簡のなかで、フックの先行する学術的寄与を認めたうえで、「私がさらに遠くまで見ることができたとすれば、それは巨人たちの肩の上に立っていたからだ」と、謙遜ともいえる態度を示してみせたのである。

Wikipedia: Philosophical Transactions of the Royal Society より

「フィロソフィカル・トランザクションズ」1665年版の表紙(Wikipedia: Philosophical Transactions of the Royal Society より)

 しかし、「束の間の和解」と書いたのにはわけがある。それから10年後の1686年、『プリンキピア』の第3編「世界体系」の出版に際して口火が切られた論争によって、2人のあいだには、生涯にわたって修復不可能なほどの決定的亀裂が生じてしまったのだ。その原因になったのは、「世界体系」の核心部とも言える、重力の逆二乗法則の先取権をめぐる両者の対立だった。フックは自分の発見からニュートンが着想を得たのだと主張し、『プリンキピア』の第3編「世界体系」の序文で自分に言及するように求めた。序文にフックの名を発案者として記すという要求は、ニュートンにとって、まるで自分が発見者でなく、こつこつ計算をしただけの人物であるかのように蔑まれていると感じられたようで、ニュートンは烈火のごとく怒りを露にし、次のようにフックを非難した。

    発見し、解決し、あらゆる仕事を行う数学者は単なる計算屋で、辛気くさい仕事に甘んじなければならず、何もしないで、すべてを把握したと口先で言うものが先人や後輩のあらゆる創案をさらってしまうのです。

 このニュートンとフックの熾烈を極めた先取権争いは、科学史的にも、ゴシップ的にも興味をひくものであることにはちがいないが、その応酬の中身はだんだんと泥仕合の様相を呈していった。フックは自分の日記に、ニュートンについて「私利私欲のためにはどんな悪事でもしかねない」と不信感を記し、ニュートンはフックを例えて「生意気にも論争を好む女性のようなもので、かかわるほど訴訟に巻きこまれることになる」と揶揄する、といった調子である。両者のどちらの主張に軍配があがるのかについては、昨今でも研究者によって議論の応酬が続いており、ここでは論争自体を深追いすることは控え(もしもドロドロした話をお好みの方は、後編の末尾にあげる参考文献をひも解いてみることをお勧めする)、2人の束の間の和解をもたらした手紙のフレーズに議論を戻そうと思う。

 たしかに、一番乗りをあげたのが誰かという問題が、科学者の名誉や権利に関わる重大な事柄であったとしても、先の手紙においてニュートン自らが、過去から現代まで世代を越えて積み重ねられてきた学術的な共同の遺産に多くを負っていることを「巨人の肩の上に立っていたから」と、認めていたはずではなかったか? しかし、ニュートンのフックに対する怒りの陰険さや執拗さを知るにつけ、先の和解の手紙で表明していたはずの謙遜はどこへ行ってしまったのか、と疑問を抱かざるを得ない。かつての論争で示してみせた寛容や公平さは上辺だけの欺瞞にすぎなかったのだろうか。
 科学社会学者のロバート・マートンは、そのニュートンの「巨人の肩の上に立っていたから」との言葉を、「科学研究が本来協働的、累積的な性質のものだということを認めたもので(中略)科学の進歩には、過去と現代の世代の協働が含まれているという自覚からきている」というように肯定的に解釈し、そこに科学の「公有性」という性質が反映されている、と読み解いている。このマートンの言う、科学の「公有性」の前提に立つとするならば、先取権の競争の産物として生じた新たな科学的知見とは、その発見者に独占的に所有されるべきものではない。むしろ、出版物として公衆の目に供され、学界や学術雑誌へと報告・提供されることで、発見者は世間から尊敬や評判という対価を得られるのだから、現に今日のニュートンの名声とは対称的なフックへの過小な評価を顧みるならば、なにもニュートンはそこまで怒らなくてもよかったのではないか、という気がしないでもない。実際に、そうした学術的な制度のなかでの科学の公有性に対する規範意識は、すでに当時の科学者たちのあいだで、ある程度は共有されていた。英国王立協会の初代事務総長オルデンバーグの個人編集による「フィロソフィカル・トランザクションズ」は、その創刊号の序文に、印刷出版(プレスすること)を通じて、学問に従事する人々(学者や好事家たち)のあいだで知識を互いに分かちあうことを目的に掲げていたし、それに加えて、王立協会の公式な出版認可を与えられた会員たちの書物も頻繁に出版されていた(『プリンキピア』もそうした書物のひとつだ)。これら17世紀後半のイギリスの科学出版活動は、国内に留まらないヨーロッパ各地の学者間の一種の開かれたフォーラムを形成しつつあった。

 また一方で、マートンは「巨人の肩の上に立つ」という言い回しを別の角度からも論じている。『On the Shoulders of Giants』という著書のなかで、マートンはこの言葉の由来をさかのぼり、引用元の原典となった歴史的な文献を検証し、「巨人の肩の上に立つ」という言い回し本来の含意が、実のところ、やや異なるものであったことを明らかにした。マートンによると、この巨人のフレーズが17世紀以降に普及する一因となった、イギリスの神学者ロバート・バートンの書物『憂鬱の解剖(The Anatomy of Melancholy)』(1621)では、バートンはこのフレーズの出典として16世紀のスペインのフランシスコ会修道士ディエゴ・エステラ(Didacus Stella)を参照しているのだという。その参照元での言い回しをマートンが確認したところ、ディエゴ・エステラは、巨人云々のフレーズの前置きに「多くの偉大なる賢人たちや学識ある人々が言ったことを糾弾するつもりなどまったくないのだが、とはいえ、私たちもよく知るように……」と書いているのだと言う。このことは、本来は必ずしも、古代の人々の知恵に対する敬意を表するという意味合いにおいて言われたのではなく、現代人の利点の側から述べられていたかもしれなかった言い回しであったものを、バートンが自著に引用する際に、前後の文脈から切り離して用い、それが後の世に広まっていった、という可能性を示唆している。
 バートンにせよニュートンにせよ、巨人云々の言い回しを引き合いに出すことで何を言わんとしていたのか、彼らの真意の所在については、書物や手紙に書き残された字義通り以上のことを、後世の私たちが恣意的に解釈することはできない。しかし、彼らが意図していたか否かはさておき、各々の文脈に引き寄せ、その元来の言い回しを変型しながら用いていた、ということはおそらく言えるだろう。近代人がたとえ「巨人たちの肩の上」に立っていたとしても、その古代の知恵が本来どのような原型をとどめていたのかは――巨人云々の言い回しそれ自体の表現が移り変わるのと同じように――引用に継ぐ引用を経て、数多くの誤謬が入り込んだ後、もはや損なわれてしまっているのである。
 長い時間がたつうちに、自然の真理を記した古代の文書は次第に汚染され、腐敗していくのが常である。そうした腐敗が蔓延している状況を、ロバート・フックは疑問視していた。フックは、顕微鏡を覗き込んで観察される、微細な世界を美しく描いた図版を数多く収録する彼の主著『ミクログラフィア』の序文で、その腐敗から国家や学問を守るための最も良い方法とは、「最初の基礎であった第一原理へと立ち返ること」である、と述べていた。ここでは、立ち返ることこそが、すなわち前進することであり、そして、フックにとっての立ち返るべき原理とは、事物の観察を通じて「自然という書物」を読み解くことを意味していたのであった。

後編に続きます


PROFILEプロフィール (50音順)

古賀稔章(こが・としあき)

1980年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、同博士課程在籍。研究対象はルネサンス・初期近代のタイポグラフィ、書物の文化史。2004~2009年、デザイン誌「アイデア」の編集に携わる。2011年より批評的議論のためのフォーラム「何に着目すべきか?」を協働で企画。編集した主な美術・デザイン書に『ハンス・ウルリッヒ・オブリストインタビュー Vol.1 (上)』(Walther König)、『One and three books 一つと三つの書物』(limArt)など。共訳書に『オープンデザイン』(オライリー・ジャパン)。