現在、ぼくはブックホテルをつくるプロジェクトを担当しています。もともとは「あしかり」という日販の社員保養所だった物件を、滞在型のブックスペースに生まれ変わらせるべく、2015年から日夜奔走してきました。ホテルの名前は「箱根本箱」。念願のオープンは今年の8月1日から。この連載コラムでは「箱根本箱」ができるまでのぼくたちの歩みと戸惑いを記しながら、ブックホテルをつくることの意義や、新業態を模索している取次の内幕を、当事者の一人であるぼく個人の主観を通してお伝えしていきたいと考えています。
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リノベーショングループに異動して最初に取り組んだプロジェクトは、日販グループのあゆみBOOKS荻窪店、高円寺店をリノベーションし、新たなブランド「文禄堂」を立ち上げるプロジェクトだった。
ぼくはプロジェクトマネージャーを担当することになった。話をもらったときは興奮を覚えたが、それはいつしかプレッシャーに変わっていった。なぜなら、地元に長年愛されてきたお店だと知っていたからだ。数多の思い出が詰まっているに違いない。絶対失敗できない。まだプロジェクトが動き出してもいないのに、勝手に追い詰められたぼくは不眠に悩まされ、右手はつねに震えていた。我ながらなんたる豆腐メンタル。
そんな状態のまま突入したリノベーションプロジェクトでは、予想通り周囲に迷惑をかけまくった。コンセプトを策定することはもとより、ミーティングを取りまとめることも、電話一本かけることも、メールを書くこともまともにできず、ミスを連発。プロジェクトマネージャーとは名ばかりだった。
書店の現場で働く人たちは、こんなポンコツで、知識も経験も不足しているぼくに「街の本屋としての仕事」を辛抱強く教えてくれた。知らぬまに上司と同僚がフォローしてくれていた。なんとか自分にできることを増やそうと、みんなの横で仕事のやり方を必死に学んだ。周囲に迷惑をかけてはいたが、たどたどしくも少しずつ「街の本屋としての仕事」を覚えていく毎日に充実感を覚えていた。手の震えはいつの間にか治まっていた。
店名「文禄堂」は、あゆみBOOKSの前身、江戸から明治に変わるころに日本橋にあった「書肆文禄堂」を由来としている。谷崎潤一郎は幼少のころ、店主に憧れを抱いて通ったという。街の文化と娯楽に貢献していくことこそ本屋の本分。コンセプトは一番単純で一番難しいものに決まった。
書店空間を増やしたいというぼくの想いも、荻窪店のために開発した移動式書店「BOOK ROUTE(ブックルート)」で具体化された。日本初の電気三輪自動車「エレクトライク」の荷台を本棚にカスタマイズしたもので、普段は店舗の愛される顔となり、イベントがあれば移動販売書店となる。人がいる場所にみずから出向いていくことは、ぼくには大きな一歩に感じられた。
文禄堂荻窪店、高円寺店のリニューアルオープンは話題となり、オープン直後は売上を大きく伸ばすことができた。しかし、しばらくすると高円寺店の売り上げがかんばしくない。リノベーションに対する批判や不満の声も耳にするようになり、プロジェクト開始前にぼくが一番恐れていたことが現実となっていった……。しかし不思議と肝は座っていた。原因はあるはずだ。
店舗の入口に導入したカフェスタンドが原因かもしれない。ゆったりとお客さんが滞在するための導線をつくり出すことに失敗しているのかも……。想定していた「本を買ったあとにコーヒーをゆっくり楽しむ」というシーンなど、どこにもないじゃないか。イベントを開催するために店内に新しくフリースペースを設けたことで、リニューアル前よりも蔵書冊数を減らさざるを得ず、それがかえって本と出会う可能性を損ねてしまっているのかも……。原因をはっきりと特定することは難しい。ひとつひとつを検証するしかない。
文禄堂の現場スタッフ、あゆみBOOKS本社の方々、日販の営業、リノベーショングループのメンバーで、すべての可能性を考え続け、店内レイアウトや書棚の配置を粘り強く見直し、接客サービスやイベント企画の充実にも力を入れた。少しずつだがお客様の滞在時間をのばすことに成功。カフェスタンドでコーヒーブレイクを楽しんでいるシーンも見られるようになった。次第に売り上げも回復していった。とても嬉しかった半面、好不調の波はまた寄せては返すだろうとも感じていた。原因は複合的で、流動的だから、日々の振り返りと改善しか策はない。それが当たり前の「街の本屋の仕事」だったんだ。
「つくること」よりも「つくってから」のほうが、はるかに難しいことを痛感した。ゆえに、少しでも難しくならないように「つくること」が大事なんだと思う。毎日その空間をいいものにするために創意工夫を重ねているスタッフの方々にはほんとうに頭がさがる。彼ら、彼女らへの仕事に対する想像力なく、書店のリノベーションを掲げても、成功することはないだろう。最初にこの「文禄堂」プロジェクトにかかわれたことは、ぼくのなかで今後の大きな指針となった。
その後、企業の社内用ライブラリーの選書、雑貨やアパレルなどの小売店舗への本の導入など、リノベーショングループの活動は少しずつ、仕事の幅をふやしていった。どんな仕事でも、みんなの本屋になっていきたいという想いを込め、ぼくたちはこうした活動に「YOURS BOOK STORE」というブランドネームをつけた。
文禄堂のプロジェクトを進めながら、リノベーショングループでは企画会議を重ねていた。新設された部署なので、仕事は自分たちで生みだしていかないければならなかったからだ。そんな折、リノベーショングループの責任者である上司の富樫建が、今後を左右しそうな大きなヒントをとあるイベントから持ち帰ってきた。そのイベントは産業・行政・学術の各界から多才な人材が集められ開催されたらしく、どうやら基調講演のスピーカーからの影響のようだ。
富樫は、日販入社後、経営戦略室で全社の数値管理を担当してきた。その経験から、業界に少なくない変化をもたらすことになった出版流通SCM(サプライチェーン・マネジメント)システム構築プロジェクトの立ち上げに参加。2015年からぼくらリノベーショングループのリーダーとなっている。2018年に日販の執行役員に就任。日販グループの変革を推進する張本人だ。「箱根本箱」の事業主である株式会社ASHIKARIの代表取締役でもある。富樫はいつも大きな声でよく笑う。仕事でも、酒の席でも、それは変わらない。仕事量も、酒量も、とんでもない容量になっている……。
講演の内容は、全国各地の魅力を再編集・ディレクションすることで地方都市や農村地域を活性化するというもの。ちょうど政府主導で地方創生が掲げられていた時期だったから、テーマ自体はけっしてあたらしいものではなかったが、そこで提示された事例はこれまで見たこともないものだったという。
それはすべて「体験」をもとにしていた。古民家を改装したように見える素敵な施設も、土地の素材をふんだんに使ったおいしそうな料理も、それだけをとって見ればありふれた光景かもしれない。でもそこで紹介されていたのは、食・衣・住・農・芸・遊・環・癒・健・集という10のテーマを有機的につなげることで、ホテル自体をひとつのメディアとして体験する場を提供するという。そのホテルの名前は「里山十帖」。2014年に新潟県南魚沼市でオープンして以来、利用者の足が途切れることはないそうだ。
軸足を利用者一人ひとりの体験に置いているから、その場所を訪れる必然性が生まれる。そこでしか味わうことのできない体験があるから、利用者はまたその場所を訪れたいと思う。素敵な施設も料理も、すべてそのために存在している。写真のなかの利用者の満足そうな表情に嘘がない。そのように富樫は感じたと語ってくれた。
スピーカーのことばのひとつひとつ、身振りや手振りを交えた語り口にも、富樫はすっかり魅了されたという。その人の名は、岩佐十良さん。岩佐さんは90年代に雑誌『東京ウォーカー』や『TOKYO★1週間』をヒットさせ、2000年に雑誌『自遊人』を自社で創刊した編集者・クリエイティブディレクターだ。温泉と食と宿を徹底した利用者目線でレビューした『自遊人』は、多くの読者からの支持されてきた(「自遊人」は岩佐さんが代表を務める会社名でもある)。現在岩佐さんは、前述の宿泊施設「里山十帖」を経営しながら、働き方も含めた新しいライフスタイルの価値提案、その実践をつづけている。
講演に共感した富樫は、岩佐さんのもとへ駆け寄ったそうだ。それが岩佐さん率いる「自遊人」とぼくら「YOURS BOOK STORE」との幸運な出会いにつながっていった。
[ぼくらがブックホテルをつくる理由はどこにある?: Vol.2 了]
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