1989年に『ビッグコミックスピリッツ』で連載開始となり、マンガ業界のみならず出版文化そのものを震撼させた伝説の作品、『サルでも描けるまんが教室』。しかし、その続編たるべく2007年に『IKKI』でスタートした『サルまん2.0』は、第8回の連載を最後に中断。以後、10年近くに渡り沈黙を保っていた『サルまん2.0』だが、2017年6月、小学館クリエイティブから『サルまん2.0』が刊行される。10年の沈黙は何を意味していたのか? 『サルまん2.0』は何を目指したのか? 『サルまん2.0』が今問いかけるものとは何か? その深淵を、相原コージ氏、竹熊健太郎氏に加え、『サルでも描けるまんが教室』から生まれた「相原賞」出身の漫画家・ほりのぶゆき氏をゲストに迎え、徹底的に語り尽くす。
いかにして『サルまん2.0』は誕生したか
竹熊健太郎(以下、竹熊):本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます……なんかね、「サルまん」の緑のほう(編注:『サルでも描けるまんが教室 21世紀愛蔵版 上巻』のこと)が品切れになっているみたいで……(黒沢氏に向き直って)なんとか増刷かからない? 千部でも嬉しんだけど?
黒沢哲哉(以下、黒沢):いやあ、ハハハ(苦笑い)。その前に、ちょっとまず自己紹介からいきましょう。
竹熊:えっと「サルまん」の片割れの竹熊です。今は大学で教えたり、電脳マヴォっていうネットの漫画サイトやっていたりしています。
相原コージ(以下、相原):相原です。今は「アサヒ芸能」で『コージジ苑』を描いています。他には「Webコミックアクション」で『こびとねこ』というまんがを描いたり、「ゴラクエッグ」で『愛のバビロン』という作品の原作を担当していたり。そんなもんかな。
ほりのぶゆき(以下、ほり):第1回相原賞で「金のアイハラ賞」を受賞してデビューしたほりのぶゆきです。今年で30年目なのかな。こういう場に出させていただけるのもお二人のおかげかなと。
黒沢:編集担当で本日司会をさせていただく黒沢です。では早速ですが、この本、『サルまん2.0』の成り立ちといいますか、どんな本なのかを説明していただけたら。
竹熊:最初は……僕が10年前に脳梗塞で倒れまして。死にかけていたんですが、そこに相原くんと初代「サルまん」の担当編集者の江上さん(編注:小学館の元編集者、江上秀樹氏のこと)がね、お見舞いに来てくれたんですよ。まあなんとか九死に一生を得まして、それで、復帰第1作として新しい「サルまん」をやろうよということになって……いや、そのときにはもう企画が通っていたんだっけ?
相原:正確には脳梗塞で倒れる前に「サルまん」の続編は決まっていて、竹熊さんが倒れちゃって、ちょっと伸びたんですよ。
竹熊:そうだった。では改めて、『サルまん2.0』の誕生の経緯を説明すると……今回ね、『サルまん2.0』にカラー版が収録されているんです。(ページを開いて見せて)この「サルでも描けるまんが教室21」ってのがありまして……。
相原:紛らわしいんですけど、この漫画が『サルまん2.0』ができるより先です。こっちのほうが後なんじゃないかと思われそうですが……。
竹熊:これが最初なんですよ。萌え漫画の描き方っていうテーマでね、久々に二人でサルまんやってみようと。僕も当時「たけくまメモ」というブログをやっていて、今はほとんど閉鎖状態なんですが、まあまだネットに残っていますが、そこで、宣伝を半年かけてやる一環で、読者に呼びかけたんですね、新しい「サルまん」をやるから、萌え漫画の描き方をやりたいから、みなさん教えてくださいと。相原くんにまず適当な、あまり萌えないような萌え絵を描いてもらって。それを僕のブログにアップして、これをみなさん添削してくださいと。であの、萌えるようにするにはどうすればいいですかと。するとですね、もう全国から鬼のような添削の嵐。赤ペン先生が大挙してやってきた。ここの顎の角度はこうしたほうがよいとか、目はもうちょっとこうだとか、こうすれば萌えるんだとかね。
相原:プロの方とかもいらっしゃいましたよね。
竹熊:これで宣伝を兼ねたんですよ。こちらとしてもネタ集めになったし。とまあ、これで「特別編」ができて、これが『サルまん2.0』の原型となるわけです。
黒沢:ちなみに、ほり先生は、萌えはどうなんです?
ほり:大好きです(笑)。
黒沢:描いたりとかは?
ほり:大変ですからね。おっさんっていうのは多少精度をずらしてもね、武将とかね、なんとかなりますけど、萌えの絵はね、ちょっと線が揺れるだけでおかしくなりますから。
竹熊:ハハハ(笑)。ところがね、相原くんが描いた萌え漫画が非常に評判がよかった。研究した成果が出たわけです。結構ね、これに本気で萌えるって人が出てきて。
相原:色だけはつけてもらったんですけどね。
竹熊:ほりさんの後輩の方に着彩を頼んだんですよね。それでまあ、この「萌え漫画の描き方」が非常に好評で、「サルまん」の本編に掲載されてもおかしくないクオリテイだということになり、そこで勘違いしたというか、「サルまん」がまたできるんじゃないかという気持ちになった。で、これをIKKIに掲載して……その後に愛蔵版が出たんだよね。何年だっけ? 2016年?
相原:もっと前ですよ。
竹熊:何年だっけ? (『サルでも描けるまんが教室 21世紀愛蔵版 上巻』の奥付を確認して)2006年だ。10年間違えた。で、これが出て、僕のブログで半年かけて読者を巻き込んで宣伝したら……なんと僕のブログから2000部売れたんです。2000部ですよ?
相原:そのアフィリエイトで結構儲かったんでしょう。
竹熊:月の収入が3ヶ月連続30万超えた。アフィリエイトだけでだよ? これでね、もうネットの時代だと思った。30万あれば食えるし。これからはネットを使って漫画を連載できないかと思った。そしたら脳梗塞で俺が倒れて死線を彷徨って……。
相原:脳梗塞で倒れる前から『サルまん2.0』の企画は進んでいたけど、脳梗塞で伸びちゃって。
竹熊:退院して半年後ぐらいにははじまったんだっけ? その時杖ついてたっけ?
相原:ついてた。
竹熊:退院して最初の3ヶ月は車椅子だった。ようやく歩けるようになって。
相原:「サルでも描けるまんが教室21」をやったことで、僕も竹熊さんも担当もサルまんがもう一度できるんじゃないかと思ったんだ。これが『サルまん2.0』誕生の経緯ですかね。
『サルまん2.0』の失敗
竹熊:でもね、同床異夢というかね……微妙にやりたいことが違っていたんだね。僕は次にサルまんをやるとしたら、マンガ業界全体の構造、ビジネスとしての漫画、どうやって漫画はビジネスになっているのかというところをテーマにできないかなと思っていた。漫画はアニメ化されたり、ドラマ化されたり映画化されたり、キャラクターグッズ展開をしたりと、要するにメディアミックス展開をすることででっかいビジネスになるんですよ。そこまで「サルまん」でできないかなと思ったんですよ。で、僕が個人的に突っ走っちゃったのは、本当にやろうとしたこと。当時の僕には勝算があった。なぜかというと、当時、蛙男商会さんと知り合って……「秘密結社鷹の爪」の人、あの人がまだあまり売れてない頃に知り合ったの。彼は天才でしたよ。ものすごい低予算でおもしろいアニメを作っていた。5分のアニメなら2日でできるっていうんだから、すごいでしょう。信じられないでしょう? で、彼に頼んでメディアミックスとしてアニメ化を企画したり、「サルでも描けるまんが教室21」のときのように読者を巻き込んだ企画をどんどんやったり、『サルまん2.0』に「デスぱっちん」という劇中劇があるんですが、そのキャラクターの声優を一般公募したり、とかね。いろいろなアイデアがあったんですけど、結局できなかったんですよ。
黒沢:まあその辺が噛み合わなくなってきたという……。
竹熊:つまりね、相原くんは漫画が描きたいわけ。……だよね?
相原:竹熊さんの理想がね、どうすればIKKIの連載で成り立つかがわからなかったっていうところはあります。
竹熊:だから、結局、早かったんだよね。
相原:早かったって言うだけの問題でもないような。
竹熊:あのときにTwitterがあればね。Twitterで巻き込めれば。
相原:竹熊さんは今自分のメディアを持っていますし、今のSNSを駆使してね、やればいいじゃないですか、竹熊さんのやりたかったことを。
竹熊:いや、今ボクが電脳マヴォっていうのをやっているのはね、ある意味で『サルまん2.0』でやりたかったことをやろうとしているのかもしれない。まだできていませんけどね。
相原:でももう10年ぐらいたってますよ?
竹熊:全く資本がない状態でね、イチからやろうとするとね、10年ぐらいかかりますよ。
相原:「サルまん」でそれをやろうとしても、小学館にしてもあまりお金は出せないでしょうし。
竹熊:でもね、あのときにね蛙男商会さんにねアニメ頼んでいたら、その後、あれよあれよと売れていたかもしれない。だからね、そんな形で盛り上がっていけた可能性はあったと思う。あの時点では誰もわかっていなかった。僕だけはわかっていた。
黒沢:ほり先生は連載の頃見ていらっしゃいました?
ほり:僕はねえ、見ていなかった。ちょっと意識高い系入っているのかなと。
竹熊:文学的でちょっと高尚な感じが?
ほり:そうですねえ……今、漫画業界をネタにした漫画って多いですけど、こういうマンガ業界を漫画にした漫画って「サルまん」が早かったわけですよね?
竹熊:最初の「サルまん」のときに、過去に漫画の描き方をネタにした作品を全部買ったんですよ。大正時代の岡本一平の『新漫画の描き方』とかまでね、資料として集めました。石ノ森章太郎の『少年のための漫画家入門』とかもね。それらを全部調べて、それを全部コケにするような、つまりギャグですから、「こう描いちゃいけない」って言う笑いがオリジナルのサルまんの骨子でした。
相原:うん。
竹熊:そしたらなんかわからないけど、「サルまん」読んで勉強しました、っていう漫画家が現れて。本気か!?と。
黒沢:ほり先生は「サルまん」で勉強された口ですか?
ほり:生き方を学びました。相原竹熊の罵り合いとか、そういうリアルなところが勉強になりましたね。
竹熊:オリジナルの「サルまん」のときの思い出ですけど、白井編集長がね、相原くんも覚えていると思うけどさ、教えてもらったんですけど、白井さんがね「喜べ、藤子不二雄(F)先生が「サルまん」を褒めていたぞ」と。その後にちょうど「サルまん」で竹熊と相原が罵り合って殴り合うっていう展開があって……。
黒沢:褒めた後なんですね(笑)。
竹熊:うん。あとは里中満智子先生に褒められたこともあるしね。他には……そう、ちばてつや先生が読んでいたんですよ、「サルまん」を。ちばてつや先生の家までお邪魔してインタビューしたことがあって。「サルまん」が終わった後ですね。で、ご挨拶して名刺を僕が渡したら、ちば先生が「「サルまん」読んでいたよ。おもしろかったねえ」と。「お読みになっていただけたんですか!」と。意外に大御所からも愛されていたという……。
相原:この間、平田弘史先生のパーティーに行ったら、みなもと太郎先生も読んでいたという話を聞きました。評価していただいていたと。
竹熊:この『サルでも描けるまんが教室 21世紀愛蔵版』の題字は平田先生に頼んだんですよね。あ、この前、平田弘史展(編注:「超絶入魂!時代劇画の神 平田弘史に刮目せよ!」のこと。2017年1月3日〜3月26日、弥生美術館にて開催)があったでしょ? あそこに平田弘史が書いた題字が展示されていまして、そこにありましたよ、これ。
「相原賞」と昔の話 part.1
黒沢:せっかくね、ほり先生もいらっしゃっているので、相原賞の話を。
竹熊:もう一生まとわりつくよね(笑)。
ほり:僕は気楽なんですけどね。
竹熊:あれはね、賞金がなかったんですよ。ひどいよね。
相原:あれ? でも、ほり君にトロフィーかなんかをあげたような。
ほり:金の仏像ですね、持っていますよ、まだ。
竹熊:『サルまん2.0』にも収録されていますが、僕と相原くんが初めて一緒に仕事をすることになった「落日新聞」という企画ページがあって、これが実は「サルまん」や「相原賞」誕生のきっかけになっています。当時スピリッツで江口寿史先生が連載していた「パパリンコ物語」というのがあり、これが何度も原稿を落としていた。で、当時江口寿史先生の担当編集だった江上さんが僕のアパートに夕方やってきて「明日の朝、午前11時までに原稿を入稿しないと落ちる」と。しかも白井勝也編集長の厳命で「代原を入れるな」と。代原というのは作家が忙しくて原稿を落としたときに、新人賞かなにかから佳作などをとった作品をね、封をしてとっておくんですよ。で、落ちたときにその原稿と差し替える。それが代原です。これでデビューできる作家さんもいます。当時の江口寿史先生はひどかったんですよ。江上さんから聞いたんですけど、そのときは1週間、江上さんが江口寿史先生の仕事場に泊まり込んで、1週間ですよ? それで原稿ができるのを待つそうです。で、明け方江口寿史先生が「ゴミを出してきます」と。それで3日間行方がわからなくなる。中身の16ページがまるまるなくなるという。そんな感じのやりとりがあったほどひどかった。白井編集長が「俺はずーっと読者に嘘をついてきた。もう読者に嘘をつくのは嫌だと。作者急病のため、と読者に嘘をつくのはイヤだ。もうバラす。江上、江口が落としたことをバラせ。読者に知らせろ。満天下に知らしめろ」と怒ったわけですね。白井編集長は「江口のやろう、こうなったら原画をコマごとに切り刻んで読者プレゼントにしてやる!」とまで言ったとか。昔の貸本漫画みたいですよね。貸本漫画って原稿を作者に返却しないことが多々あったそうで……それでまあ、「落日新聞」という企画ができあがったんですよね。相原くんに相談に行ったのって、あれ何時頃だっけ?
相原:夜ですよ。急に来たんですよ。
竹熊:当時僕は吉祥寺の井の頭公園の傍に住んでいて。公園の反対側のマンションに相原くんが住んでいて。一応知ってはいたんだよね、お互いね。
相原:そうそう。
竹熊:それで、江上さんが夕方来て、あとたっちゃん、立川さん(編注:小学館の編集者、立川義剛氏のこと)っていう、もともと相原くんの『コージ苑』の担当をしていたたっちゃん……あの時期、白井さんが編集長で、たっちゃんと江上さんが編集者だった頃のスピリッツはね、僕が思い出しても最強だった。白井さんってのがめちゃくちゃなことを言い出す編集長だった。作者が落としたことを漫画にして明日の朝まで16ページ埋めろという無茶を言う人だった。僕は16ページは無理だと言って、8ページにしてもらった。残りの8ページは自社広告、小学館の刊行物の広告で埋めてもらった。で、その相談をしたのが夜だったのよ。たっちゃんも一緒に行ったかな。当時僕は双葉社の、「諸星大二郎の世界」というムックを編集していたのよ。これがね、後1週間以内に原稿入れないと落ちるというギリギリのところで、他の仕事を受けているヒマなんてなかった。でも、そのときにね、「こんな仕事は二度とできないな」と思ったの。だからやってみたいなと。あともうひとつは、泣いても笑っても明日の朝11時まで、ということは、編集者はこちらの仕事にボツを出す余裕はない、何を描いても掲載されるはずだと。そういうことで受けたんですよ、「落日新聞」の仕事を。その場で構成を考えて、20分ぐらいだったかな。それで相原くんのところに依頼にいって。そのとき、たっちゃんは相原くんの『コージ苑』をはじめたばかりのところだった。
相原:週刊連載を2本やっていましたね。
竹熊:新進気鋭のギャグ漫画家。双葉社と小学館で連載を持つというね。相原くんの『コージ苑』という作品は、あいうえお順に言葉が並んで、それをテーマにして4コマ漫画を描くという企画でした。でね、あいう「え」のときにボツが出た。「え」ですよ。どんな話かというと、登場人物が漫画雑誌を読んでいて、またかと言って雑誌を放り投げる。「え」ですからね? 読者はわかるわけですよ。江口寿史の「え」だってことに。ただ編集部としてはそれを掲載するのは、実在の作家、しかも大御所を皮肉りすぎだということでボツになった。で、僕はそれを復活させたわけです、落日新聞で。
黒沢:あの、相原賞の話は……。
[「『サルまん』と、封印された『サルまん2.0』について語ろう vol.2」に続きます]
(2017年7月3日、本屋B&Bにて)
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