写真:清水玲奈 イラスト:赤松かおり
第2回 INK@84
インク@84は、ロンドン北部のハイベリーに2015年12月にオープンした本屋さん。地下鉄ピカデリー線のアーセナル駅から徒歩10分、ヴィクトリア線のハイベリー&イズリントン駅から17分。公園に近く、静かな住宅街の一角にあります。
テラスドハウスと呼ばれるイギリスの典型的な長屋建築の一角に、お店が設けられています。不動産屋だったのが書店になり、近所の人は大喜びしたとか。左隣はカフェ、右隣はベトナム料理店
通りに面したファサードは全面ガラス張りで、木のようなウインドウディスプレー。西向きなので、ロンドンでは貴重な午後の光が気持ちよく差し込んでくるうえ、中が良く見えるので初めてでも入りやすい雰囲気です。そして、店頭の黒板には、太陽の絵とともに「本は1455年から冬の鬱な気分を吹き飛ばしています」と書かれています。取材に応じてくれた店主のひとり、テッサ・ショウさんに「おもしろいですね」と言うと、フルタイムの店員で作家志望のクレアさんが考えた「オリジナルの格言」だと教えてくれました。さっそく、店内のバーカウンター兼レジにいるクレアさんに「ほめられたわよ」と報告するテッサさん。クリエイティブ・ライティングの博士課程を修了し、今は小説を執筆中というクレアさんは、恥ずかしそうに「ありがとう」と言いました。
「本は1455年から冬の鬱な気分を吹き飛ばしています」
木のようなディスプレーのウインドウ越しに店内の様子が見えて、入りやすい雰囲気です。
まずは店内を一周しながら、書棚をじっくりと眺めるお客さんが多いようです。
通りを眺めながら、コーヒーを片手に貴重な日光と読書を楽しむこともできます。
オーナーは、元美術ジャーナリスト、現在は画家として活動するイギリス人のテッサさんと、2015年までに5本の小説を発表しているアメリカ人作家のベッツィー・トビンさん。2人の女性は、いずれもハイベリー地区に25年ほど住んでいて、かつては犬の散歩仲間として親しくなりました。「2人合わせて、18歳~25歳の7人」(テッサンが3人、ベッツィーさんが4人)の子どもを育てあげた後、どちらからともなく一緒に本屋さんを開こうという話になりました。学生や社会人の子どもたちも店に興味を持って、夜にはバーカウンターで手伝いをしてくれるとか。
共同オーナーのテッサさん(左)、ベッツィーさん(右)と、唯一フルタイムの書店員のクレアさん(中央)。和気あいあいとおしゃべりしながら働いています。
ハイベリーは、フリーランスのジャーナリストなどクリエイティブな業種で、比較的若い人が多く住む地区。周辺には小学校が5校あり、子どもも多い住宅地です。少し離れたハイストリート(大通り)に大手チェーン書店ウォーターストーンズはあっても、周辺に独立系書店がなかったことから、「ここなら本屋を開いたら成功する」という確信があったといいます。2人とも、書店業界の経験は一切なかったので、ベッツィーさんが代表して、ブックセラーズ・アソシエーション主催の書店開業講座に参加。実務的なノウハウがとても役に立ったといいます。店員として、先述のクレアさんのほか、パートタイムでスタンダップ・コメディアンの女性と、10年間ウォーターストーンズで書店員をしていた経験のあるアーティストの男性が働いていて、その男性が本屋経営のノウハウを伝授する役割も果たしてくれてるとか。「でも、私たちは他の書店での経験がないからこそ、新鮮でオープンな店が作れるはずだと自負しているんです」とテッサさんは語ります。
「買い物のついでに」という風情で立ち寄ったおなじみさんとも、世間話がはずみます。
白と天然木を基調に、淡いブルーをテーマカラーにした店内は開放感があります。はしごがポイント。上映会の際には、店のロゴがある壁にスクリーンを下ろします。
インク@84と名付けたのは、「短くて、なおかつ住所である84番地の数字が入っている名前がいいなと考えた結果、本を書くのにも絵を描くのにも使うインクという言葉を使うことにした」のだとか。そして、店が軌道に乗ったら第2店を開きたいという夢もあって、「妄想の世界なんですけど」と断りつつも、その時は「インク@番地」という名前にすることも決めていると教えてくれました。これは、前回取り上げた「W4 ラヴ・ブックス」の店主が、次に開く店も場所によって「(郵便番号)ラヴ・ブックス」になる、と言っていたのと似た発想ですね。皆さん、夢が大きくて頼もしいことです。
店のロゴをあしらったブックトートは5.99ポンドで販売。75ポンド以上のお買い上げでプレゼントしています。
店のテーマは「本とキュレーション」。これからの本屋に求められるのは、本について理解し、価値がある本だけをその真価がわかるように展示し、読んでみたいと思わせることであり、それは美術作品を扱うキュレーターと同様の役割だという考え方です。「キュレーションされた書店」というコンセプト自体は珍しくありませんが、美しく心地よい空間で美しい本をより美しく見せるということにかける思いには、本業がアーティストである彼女ならではの情熱を見せます。「私らしさが反映されているとしたら、店内のデザイン、特に色への配慮です。色彩は人々の心理に大きな影響を与えますから。それから、入りやすいオープンさとともに、ちょっと隠れて本をゆっくり見られるような隅っこを作るように配慮しました。店の奥にも自然光が差し込むように天窓を設け、小さくてもぎっしり中身の詰まった店を作り上げました」と説明します。
バーカウンター兼レジ。奥の壁の黒板に手描きメニューがあり、カウンター周りには料理本やギフトに向く気軽な読み物が置かれています。
店を入って正面の壁は、主要な文学賞の受賞作に加えて、店のスタッフによる「2016年のベスト」が並びます。イアン・マキューアンら有名作家の小説やオバマ大統領のスピーチ集から、料理本、『ロシアのタトゥー』といったコアな趣味本まで、多彩なセレクトです。
広々とした店ですが、奥には狭い空間も設けて、書棚に囲まれて静かなひと時を過ごせるように工夫されています。
さらに、「このところキンドルの人気が停滞しているのも、紙の本のデザインの価値が見直されているから。人々を本に引き付ける決め手になっているのは、本の表紙です」と断言するテッサさん。店を設計している段階で、壁一面の書棚にはところどころ狭い部分を設けて、そこに一部の本を表紙を見せて並べることを決めていました。「私は文芸書であっても、装丁にまず目を留めます。最近の出版社は、物としての本の価値に気を配るようになっていますし、背表紙がたくさん並ぶ棚からいかに手に取ってもらうかということも良く考えていて、続き物で背表紙を並べた時に初めて絵が完成するデザインなど、いろんな工夫が見られます」。デザイン的な視点から、最近のお気に入りは、ペンギンが出している「グレート・アイデア」シリーズ。手のひらサイズの小さな判型で、科学、哲学、政治などの古典を集めた数ポンドの安価なペーパーバックですが、表紙のデザインがどれも凝っていて素敵。「小さい本なので基本的にテーブルの下の棚に並べているのですが、そこだとどうしても目に付きにくい」というのが悩みの種とか。
テッサさんお気に入りのペンギンブックス「グレート・アイデア」シリーズ。
店の中央にあるテーブルの周りにも棚が設けられて、小型本などが置かれていますが、お客さんの目に付きにくいのが悩みどころだとか。
店をデザインするうえで、もうひとつのこだわりが、上の棚の本を取るためのはしごを設けることでした。「はしごにはひと財産費やしました。これがあるとないとでは、本屋としての雰囲気が全く違ってきますから」。そのほかに「ひと財産費やした」のが、コーヒーマシーンでした。これは、普通の本屋なら足を踏み入れてくれないお客さんも、「通り過ぎることなく店に最初の一歩を踏み込んでもらうため」の工夫だったといいます。木曜日と金曜日は夜遅くまで営業し、バーではお酒も出します。「本の虫のための埃っぽい書店にはしたくなかったのです」。ステーショナリーや、日本のご飯茶碗とお箸のセットなど、厳選されたギフト商品を置いているのも、収入を増やすためだけではなく、店の間口を広げる狙いがあるのだとか。「厳選したアーティストの作品であるグリーティングカードも充実していて、カードを買いに来る人も少なくありませんが、そういうお客さんたちも、もちろん歓迎です」。
書棚の上の方の本を取るためのはしごは、お客さんも自由に使うことができます。
個性的な品ぞろえのグリーティングカード。手書きのカードを贈る習慣がまだ根強いイギリスらしく、これが目当てで店に来るお客さんもいます。
児童書コーナーの一角に設けられたギフトの棚に並ぶのは、本の表紙をデザインしたマグカップや、日本のご飯茶碗とお箸のセットなど。
本を並べるテーブルは車輪付きにして、簡単に壁に寄せることができる工夫をしています。椅子を並べれば、書店がイベント会場に変身。金曜日の夜には店の奥の壁にあるスクリーンを下ろし、「スクリーン84」と名付けて映画の上映会を主催。フィルムクラブのメンバーに登録している人は550人ほどにのぼり、毎回40人ほどが参加します。時流に合ったテーマの映画が選ばれ、たとえば英国がEU離脱を決めた国民投票の直後は、その結果に抗議する気持から、ヨーロッパの短編映画の上映会を開催。大いににぎわったそうです。
また、1か月に1度はブッククラブを主催。ワインを傾けながら1冊の本について語り合う大人の集いで、本を共通の話題として出会いの場になることも意図しています。そのほか、詩を読んで感想を語り合うポエトリー・イブニングや、ウインドウの前で絵本作家がイラストを描くイベント、バスーンとビオラの競演というユニークなコンサートなども開催してきました。今後は、子ども連れの母親を対象にした午前中のイベントも企画中。さらに、定員60人のパーティースペースとして夜間の書店を貸し出すことで、副収入にもつなげているそうです。
ロンドンでは最近になって、一冊の本について語り合うブッククラブが盛ん。店の掲示板には、近所で開かれる「新しい人に出会い、新しい作家を発見しよう」をテーマにした30代限定のブッククラブの案内も。
バーを設け、イベントを行うことで店の間口を広げる工夫をしていても、主役はあくまでも本。新しく出版されたものもそうでないものも、「本当に勧めたい本だけ」を置いています。本のデザインだけにこだわるのではなく、自分でもよく本を読むというテッサさん。好きな本を聞いたところ、最近読んだ中でのお気に入りとして、棚に陳列されている長編のノンフィクションや小説のタイトルを次々と挙げてくれました。エミール・ゾラが雲隠れしてロンドンに滞在した逸話を綿密なリサーチでたどるマイケル・ローズ(Michael Rosen)著『The Disappearance of Emile Zola』はとりわけ感銘を受けたとか。セバスチャン・バリー(Sebastian Barry)著の小説『Days Without End』も気に入ったそうです。また、詩も好きというテッサさんにとって、最近の最も良かった詩集は、コスタ賞を受賞したアリス・オズボルド(Alice Osbold)の最新詩集『Falling Awake』。「朗読されることを前提に書かれた美しい詩です。自然や人間の生に漂うポエジーをテーマに絵画を制作している私にとって、共感できるところが多くありました」。本について語り始めると、切りがないという様子です。
そして、本はじっくりと読むべきだという信念の持ち主でもあります。家には、これから読みたい本が何冊も積んであるそう。「本を理解するためには、斜め読みや速読ではだめ。一冊の本を時間をかけて読むことで、その本が持つ意味を自分の中に吸収することができるのです。ブックセラーとして本を心から勧めるためにも、その本について情熱を感じることが大切だと思います」。店に置く本を選ぶために、パートタイムのスタッフも含めて手分けしてきちんと本を読むように努めています。お客さんから「お姉さんへの誕生日プレゼントを探している」「1年かけてオーストラリアに船旅に行くから持っていくべき本を選びたい」といった相談を受けることは珍しくなく、そんなときはパーソナルな思いを込めて本を勧めると言います。「先日は、おなかの大きな女性が店に入ってきて、切迫流産で3週間入院するから出産日まで病院で読む本を買いに来たと言われました。『嫌なことが何も起きない話』がいいということで、エレナ・フェランテの小説をお勧めしました」。
自分で棚を見て回りたい通常のお客さんのために、いつも「見た目が魅力的な棚づくり」を心がけ、また違った本が目に付くよう、ディスプレイは少しずつ頻繁に変えるようにしています。そのほか、店を入ってすぐのところには小さなテーブルを置き、プレゼントに向く本を厳選して置いています。クリスマス前のシーズンには、ここに置いた本がとりわけよく売れたそう。このテーブルには、バレンタインデーのプレゼントにふさわしいロマンチックな本や、「国際サルの日」にちなんだサルがテーマの本など、季節に応じてさまざまなテーマの本を並べています。本をいろいろな切り口で紹介することで、「毎日の暮らしをより楽しむためのお手伝いができればと思います」とテッサさん。
また、入り口近くの壁には子ども用の本の一部を表紙を見せて展示。児童書のコーナーは店の奥にあるので、子どもの本もありますよ、ということをアピールするために設けました。「よりよい店になるように、まだまだ店づくりを学んでいる最中。常に店を作り直すつもりで、店内を変え続けています」。開店当初からこれまで、売り上げを反映して棚の配置も移り変わってきました。たとえば歴史書は奥の方に移し、ヤングアダルトは縮小し、5~12歳の子ども向けは拡大し、ブッカー賞をはじめとする文学賞受賞作のコーナーを新設し、ハードバックを目に付きやすい店頭に移したそうです。
絵本や小学生向けの図鑑などが置かれた棚。近所には小学校が数校あり、学校帰りの子どもを連れて店に立ち寄るお母さんも少なくありません。
大量仕入れによる割引を実施しているアマゾンに比べると、出版社の推奨価格で売っているため、同じ本を店で買えば値段は割高になります。それでもお客さんが今も書店で本を買うのはなぜでしょう? テッサさんは、「とくにペーパーバックなら価格差はそれほどではないので、本屋で本を買う体験の代価と考えれば、割高でも構わないとお客さんたちは思ってくださっているのでしょう。本屋を、ひいては個人商店をサポートしたいと考える人たちが一定数いるのです」と分析します。「本をあれこれ手に取って眺めるのは、リラックスできて、新たな発見に結び付くかけがえのない体験であり、人々を人間的にしてくれる時間ですから」。ただし、ほとんどの人が小さなスペースにしか住めませんから、厳選された本しか買わない時代になったとも実感しています。たとえば、料理本はプレゼント向けでしか売れないそうです。
「今後もアーティストとして活動を続けて、広く作品を見てもらうチャンスを増やしたいというのが私の夢。それと同時に、この店ももっと多くの人に知ってもらい、『この店はいい本屋だな』と思ってもらいたい。そのためには、今までのお客さんから知り合いに店の話をしてもらって、ひとりでも多くの人に足を運んでもらえたらと思います」。最後に、「お店に展示されている作品の写真を掲載してもらえたらうれしいです」と頼まれました。
オリジナルのロゴも含めて水色を基調にした店内は、青が印象的なテッサさんの作品がアクセントを添えています。この店もテッサさんの作品ですが、仲間たちとコラボレーションにより、進化を続けています。
青一色のテッサさんの作品が、本とともに店内を彩ります。
[英国書店探訪 第2回 INK@84 了]
INK@84
84 Highbury Park London N5 2XE, UK
+44 207 686 8388
月~水 10:00~18:00、木10:00~21:00(バーナイト)、金10:00~21:00(19:00~映画上映会「スクリーン84」)、土 10:00~18:00、日 12:00~17:00
http://www.ink84bookshop.co.uk/
開店:2015年12
店舗面積:620㎡
本の点数:3500点
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