1974年に「白い波の荒野へ」で小説家デビューし、翌年には代表作「スローなブギにしてくれ」を発表。今なお旺盛な執筆活動を続ける作家・片岡義男さん。そのハードボイルドで疾走感に満ちた作風は現在も強く支持されています。
今確認できる範囲でも580を数える片岡さんの膨大な著作を、すべてデジタル化し誰でも入手可能な状態にする「片岡義男 全著作電子化計画」。ボイジャーの手によって7月1日にスタートしたこのプロジェクトでは、最初の1か月ですでに100作品がリリースされています。
自らの著作をすべて電子化することの先に、片岡さんはどのような風景を夢見るのでしょうか? そしてそれは読み手と書き手にどのような変化をもたらすのでしょうか? 代表作たちの誕生秘話などにも触れつつ、プロジェクトの開始から間もないタイミングで行われた批評家・佐々木敦さんとの対談をお送りします。
※本記事は、2015年7月4日、第19回[国際]電子出版EXPOの会場で行われたトークイベントを採録したものです。
【以下からの続きです】
1/5:「日本の話、つまり自分の日常に近い話が書けないんですよ。」
2/5:「理想型の『今この瞬間』を短編で書いている。」
3/5:「過去の短編500本を読めばおそらく、全部書き直したくなってしまうはず。」
小説には反知性主義が必要
佐々木:タイトルに関連した話ですが、片岡さんの小説を読んでいると、「君はこういうタイトルのものを読んだら、こういう内容だと思うだろうけど、実はそうじゃないんだなー」というような、読者である僕らに対する目配せのようなものを感じることがすごくあるんです。
片岡:それはね、批評家の考えすぎですよ。
佐々木:あ、そうですか(笑)。
片岡:書いている当人にそんな余裕はなくて、そういう遊びのようなことはできないんです。台詞の中でアドリブ的に遊びをすることはありますけど、タイトルで遊ぶなんてことはできないですね。
佐々木:ちなみに、片岡さんは、小説を書くときはタイトルを先に決める派ですか、それとも後ですか。
片岡:いろいろです。途中まで書いてやっと決まるときもあるし、最後まで書いて決まるときもあるし。最初に決まっているときがやりやすいかなあ。そのタイトルに論理があるわけで、その論理をストーリーの論理にすればいいわけですから。そういった意味で、かつて書いたタイトルと同じタイトルで書くというのは非常にいいんですよ、タイトルが既にあるわけですから。
佐々木:そうですよね。では、これから過去の作品と同じタイトルの作品がいっぱい出てくるということだってありえますね。
片岡:ありえますよ。短編小説集まるごと一冊、かつて書いた小説と同じタイトルばっかりっていうのはありえます。
佐々木:あるいは、全部のタイトルが「人生は野菜スープ」っていうタイトルの短編集とか。
片岡:ははは(笑)。
佐々木:でも内容は全部違うっていう。
片岡:いいですねえ。でもそれはできないよ。かつて書いたのは忘れてるからいいとしても、ごく最近書いたのは覚えてるから、そこから離れようとするでしょ。それだと邪念が入るような感じがして良くないかなと思うんですね。
佐々木:なるほど。ただ、今のお話や「ヤンキー宣言」、そして片岡さんの最近の小説を読んでいても、実はどこか矛盾するような印象を受けるんですよね。というのも、今日のお話もまさにそうだと思うんですけど、片岡さんの小説には間違いなく、ある種のロジックがあるんですよね。つまり、理詰めで「こうでこうでこうだから、こういう小説なんだ」、「この人物とこの人物が出会ったからこうなってこうなるんだ」っていう論理が強くあるんですけど、その一方で、そういった論理ガチガチな小説家がどうしても陥るような戦略っぽい感じが全然ないんですよね。そこがすごく不思議な感じがするんです。
片岡:そうなんです、それが大事なところです。それが「ヤンキー」な部分であり、反知性主義なんですよ。小説は知性ばっかりではダメで、必ず反知性主義的な視点がないといけないんです。小説ですから、その中にかなり悪い形で存在してもいいかなとも思います。おそらく僕は、大変悪い形の反知性主義(的な文章)は書けないと思うんですけれど、どこかに「ヤンキー」がないといけない。
けれど、ついさっき知人に指摘されるまでそんなことは思ったこともなかったんですよ。でも、確かに言われればそうなんです。
佐々木:自覚しちゃったんですね。
片岡:はい。この自覚をどうすればいいか。
佐々木:なんだか、本当にヤンキーそのものという人物が次の小説で出てきそうな勢いですね。
片岡:よく探せば、これまでの作品にもヤンキーはいろいろ登場するんですよ。
佐々木:「ヤンキー」は、言ってしまえば「アウトサイダー」ということだと思うんです。確かに、片岡さんはアウトサイダーを数多く描かれていて……というかアウトサイダーだらけの小説世界だと思うので、その通りですね。
片岡:はっきり言葉にしてしまったら、その言葉を超えるような反知性主義を含んだ作品にしないといけないわけですから、あまりはっきり言葉にしない方がいいような気もするんだけれども。それでも、反知性主義が拠りどころになっていますね。
佐々木:「反知性主義」という言葉の使い方は、やっぱり知性主義とは逆の、軽蔑的なニュアンスを含んでしまうけれど、実際には必要なことですよね。
片岡:最近の「反知性主義」っていう言葉の使い方は、要するに「ただのバカ」っていう意味でしょ?
佐々木:そうですね……ええ。
片岡:ただのバカではダメですね。
電子書籍化=缶詰化?
佐々木:今日、話題に出そうと思っていたことの一つが、『ケトル』(太田出版)という雑誌での片岡さんのインタビューなんです。『ケトル』はちょっと変わった雑誌で、前から半分が特集ページで、残りの半分が40人くらいのレビュアーによる「なんでもレビュー」みたいなページになっている。僕もここにレビューを毎号書いているんですけれども、最新号(VOL.25)の特集が「缶詰が大好き!」っていうすごい特集なんですよね(笑)。缶詰を特集する雑誌もすごいなと思うんですけれど、この缶詰特集の中で片岡さんがロングインタビューを受けられている。缶詰が大好きだということで、缶詰について大いに語っていらっしゃるインタビューなんですけれども、これは「缶詰」っていう存在自体がお好きっていうことなんですかね。
片岡:要するに缶詰は文明なんですよ。たとえば5年間腐らないコンビーフなんてざらにあるわけで、しかもそれが200円くらいで買えるわけですよ。200円で買えるコンビーフが5年腐らないって言うのはある種の文明です。文明のような存在だから好きだ、ということはありますね。
佐々木:さきほど「それは批評家の考えすぎだ」みたいなことをおっしゃっていたので批評家っぽいことを言うのが今すごく恥ずかしいんですが(笑)、このインタビューを読んでいて、片岡さんの小説と缶詰ってすごく似ているなと思ったんですよね。つまり、「時間を超える」という意味では今回の電子化計画ってまさにそうで、40年前の小説の缶詰がようやく開くようになったということだと思うんですよ。缶詰は時間を超えていく存在であって、さらに、開けたときが食べどきってことじゃないですか。それって本当に小説と同じだなあということを思ったんですよ。
片岡:同じですね、確かに似てます。
缶詰にとって一番大事なものって何だと思いますか。
佐々木:一番大事なもの……何でしょう。
片岡:缶詰にとって一番大事なもの、それは缶切りなんです。僕は缶詰よりも缶切りが好きなんですよ。
佐々木:なんか深い話になっているような、そうでもないような……(笑)。やっぱり缶切りにもいろいろと種類があるものなんですか。
片岡:一番いいのはね、アメリカの兵隊さんが持っている野戦携行食についている小さいやつなんですよ。いくつか持っていて、普段も持って歩きたいんですけれども、ポケットの中に入れておくと刃が開くんです。
佐々木:インタビューの中でも語られていましたよね、「危ないからポケットの中に入れられない」と。
片岡:僕は缶切りが好きなんですよ、缶詰よりもね。
佐々木:なるほど……。
なんかうまい感じで話を進めたいんですけれども、なかなか思いつかない感じになってます(笑)。話をですね、缶詰の話からもう一度電子書籍の話に戻したいんですけれども……。
片岡:戻しましょう。いきなり戻せばいいんですよ。
佐々木:では戻します。
[5/5「過去が大事だという発見は、デジタルの中にあるんですよ。」に続きます]
編集協力:HONYA TODAY
(2015年7月4日、第19回[国際]電子出版EXPOにて)
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