1974年に「白い波の荒野へ」で小説家デビューし、翌年には代表作「スローなブギにしてくれ」を発表。今なお旺盛な執筆活動を続ける作家・片岡義男さん。そのハードボイルドで疾走感に満ちた作風は現在も強く支持されています。
今確認できる範囲でも580を数える片岡さんの膨大な著作を、すべてデジタル化し誰でも入手可能な状態にする「片岡義男 全著作電子化計画」。ボイジャーの手によって7月1日にスタートしたこのプロジェクトでは、最初の1か月ですでに100作品がリリースされています。
自らの著作をすべて電子化することの先に、片岡さんはどのような風景を夢見るのでしょうか? そしてそれは読み手と書き手にどのような変化をもたらすのでしょうか? 代表作たちの誕生秘話などにも触れつつ、プロジェクトの開始から間もないタイミングで行われた批評家・佐々木敦さんとの対談をお送りします。
※本記事は、2015年7月4日、第19回[国際]電子出版EXPOの会場で行われたトークイベントを採録したものです。
【以下からの続きです】
1/5:「日本の話、つまり自分の日常に近い話が書けないんですよ。」
デビュー当時から変わらない、片岡義男の小説世界
佐々木:僕なんかは藤田敏八監督の映画版(1981年公開)から入ったんですが、「スローなブギにしてくれ」を既に読んだことがある方は会場にもいらっしゃると思います。だけど、電子化されて初めて読む方もきっといらっしゃると思うんですよね。
これは1970年代半ば、ちょうど40年前に書かれた作品ですけど、今読んでもすごく今っぽいというか、新しさが失われてないんですよね。それはやっぱり、片岡さんの独特な(描く対象との)距離感みたいなものと関係があるのかなと。
片岡:「ヤンキー」なのがいいんですよ、きっと。せっかく「元祖ヤンキー」だって言われましたから、これからは髪を茶色にして、真っ白い靴履いて、少しヤンキー色を出していこうかと……
佐々木:それはすごいですね(笑)。
片岡:……というようなことを考えるんですけども。
「スローなブギにしてくれ」から40年ぐらい経っているわけですから、同じタイトルをもじって新作を書きたいと思ってるんですよ。
佐々木:この対談も「スローなデジにしてくれ」ですね(笑)。
片岡:「スローなデジにしてくれ」ってのはあんまりもじり上手だと思わないね。もっとうまくもじらないといけない。
僕が今考えてるのは――考えているからにはぜひとも書きたいと思うんですけども――「スローなブギにしてくれ」をもじって、「苦労な人生にしてくれ」って。
佐々木:(笑)。なんだかぐっと普通になっちゃった感じが……。
片岡:普通になる? いや、普通のタイトルで普通ではない話を書けばいいと思うんだよ。良くない?
佐々木:いやいや、良いです。ええ、むしろぜひ書いていただきたいなと(笑)。
タイトルといえば、今回の電子化計画で片岡さんの小説のタイトルを100作品ほどワーッと見ると、僕が読んだことがあるものもないものも、タイトルがやっぱりもう、すごく格好良いんですよね。一言でキメる言葉というか。「元祖ヤンキー」のみならず、「元祖コピーライター」みたいな感じも受けるぐらいなんですよ。
「白い波の荒野へ」、これが小説1作目で、40年以上前ですね。対して今、片岡さんはすさまじい勢いで新作を発表なさっていますよね。雑誌でも連作小説を書かれてますし、先月(2015年6月)には『たぶん、おそらく、きっとね』(中央公論新社)、それから『去年の夏、僕が学んだこと』(東京書籍)という、書き下ろしの長編小説を立て続けに出されています。これらと40年以上の月日が離れているにもかかわらず、「白い波の荒野へ」は違和感がまったくなく、今のものとして読めるんですよ。先ほど「(1作目は)苦労された」とおっしゃっていましたけど、僕の印象としてはむしろ、小説家・片岡義男は、もう出発点から片岡義男だったって感じがするんです。
片岡:変わってないといえば、変わってないですよね。ヤンキーのまんまですよ。
佐々木:ヤンキーのまんま(笑)。
片岡:だって、主人公が(『たぶん、おそらく、きっとね』も『去年の夏、僕が学んだこと』も)どちらもヤンキーですよ。
佐々木:確かにそうですね。「ヤンキー」と言われると全部しっくりくるから不思議です。おそらく、昔「不良」と呼ばれていた人のことをだんだん「ヤンキー」と呼ぶようになっているわけですけど、そのヤンキーと呼ばれる人たちって、目の前のことだけに反応するようなところがあると思うんですね。なおかつ、その先のことは何も考えていない。生きるということすらも、自分の頭の中で考えているわけじゃない。それが「ヤンキー的」。言ってしまえば「動物的」とも呼べるような反射神経とか運動神経で生きている。そこが、片岡さんの小説と一般的な日本文学との大きな違いだと思うんです。
日本文学は基本的に、内面=“私”を描く、という風に言われてきているわけですけど、片岡さんの小説は、たとえ片岡さんご自身や片岡さんの周りの人がモデルになっていたとしても、そこに絶対的な距離感があるんですよ。つまり、「内面」というものが、問題になっていない。全部外側から描いている。それが文章にも表れていると思うんですけど。
それもやっぱり、アメリカ文学など、日本語以外の小説から来ているのでしょうか。
片岡:まず、小説――特に短編はすぐに書き終わるんですよ。ですから、長く継続していくものを描く必要はないんですよね。で、それはますます「ヤンキー」に向いている。「今ここで自分はこれをやりたいからやっているんだ」という話を書けばいいわけです。そして、実際の生活と実際の人生としては、それが同じ調子で30年40年と続くのが、一番いいわけです。
佐々木:ええ。でも、なかなかそうはいかないんじゃないですか。
片岡:そうはいかないでしょうけども、理想としてはそれが一番いい。だから要するに、理想型の「今この瞬間」を短編で書いてるんです。
佐々木:時間はどんどん外側に流れているんだけれど、常に現在と向き合っている状態ということですね。
片岡:40年間同じことを同じ考えでずっとやっていれば、40年前も今も同じ(質感の)作品ができるわけです。
[3/5「過去の短編500本を読めばおそらく、全部書き直したくなってしまうはず。」に続きます]
編集協力:HONYA TODAY
(2015年7月4日、第19回[国際]電子出版EXPOにて)
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