2015年5月下旬に、ミシマ社から最初の3冊『佐藤ジュンコのひとり飯な日々』、『透明の棋士』、『声に出して読みづらいロシア人』が同時刊行された「コーヒーと一冊」シリーズ。100ページ前後で気軽に持ち運べるコンパクトなブックデザインや、「6掛、買切」に絞った販売条件、新進の著者たちによる目を引くタイトル――その要素の一つ一つは、現在の出版流通や書店業界の行き詰まりに対する新たな一手として考え抜かれたものだったのです。この新シリーズに込められた志にいち早く反応したDOTLACE編集長・内沼晋太郎が、ミシマ社代表・三島邦弘さんを本屋B&Bに迎えて繰り広げられたトークをほぼノーカットでお届けします。
★この記事は2015年5月22日に本屋B&B(東京・下北沢)にて行われたイベント「これからの『本』の話 ~読者、作家、本屋、出版社の共存をめざして~」のレポートです。
★ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、このイベントのコンパクト版のレポートが公開中です。
【以下からの続きです】
1/8「もう『本が重い』とか絶対に言わせない、iPhoneより軽い本。」
「かつての読み好き、カムバック!」
三島:それと、「読み切る感覚」をもう一度味わってほしいと思っているんです。今日ここに来ている方はもちろん、僕たちの周りには「本好き」が多いんですが、僕たちが生活の中で関わっている人たちが必ずしもみんな「本好き」であるとは限らないですよね。いろんな人がいる。でも、僕はどこでも「本はいいですよ」と話をするんですよ。たとえば美容室や、歯医者さん。そこで「昔はよく読んでいたんだけど、なかなか時間がなくて。結局最後まで読み切れなくて、だんだん読まなくなってしまって」という話をよく聞くんですね。そんなことを言われて、僕は出版社の人間としてそういう声を無視してはいけない、と思うんです。かつて「本好き」だった人たちはもう一度「本好き」になる可能性が常にあるわけですから、出版社の人間としてそういう人たちをどうやって取り戻すか、ということに真剣にならないといけない。
そこで何かないかと考えていたときに、100ページ前後で一気に読み切れたら、もう一度流れが来るんじゃないか。読了した後にしか味わえない清々しさ、爽快感、面白さ、そういう感覚をもう一度体験してほしい。スマートフォンとは違う、本でしか味わえない感覚をもう一度知ってもらえたら。そういうことの積み重ねでしか、もう一度本に戻ることってできないんじゃないか、と。そういう橋渡しがスポッといまの出版業界では抜けているんじゃないかと思っていて。
内沼:本当にそうだと思います。世の中のコンテンツはこの20年くらいでどんどん短くなっているんですよね。たとえばブログがTwitterに変わったこと。コミュニケーションもメールがLINEのようなショートメッセージになったり。それがいいかどうかは別にして、みんなの生きるペースが早くなっているんですよ。だから当然、時間の単位もいままで2時間単位で区切っていた人が1時間になったり、あるいは10分単位になったりしている。
そういう生活のスタイルが変わっているのに本の厚さは変わっていないんですよね。それはなぜかというと、たとえば出版流通の制約があるわけです。今まで200ページ1,500円で売っていたものを100ページにしたら売れないんじゃないか、とか。中にはページ単価という考えで、1ページ、1文字いくら、みたいなカウントで本を買う人もいるんですよ。そういうことがあって、本を厚くしている。他にも、モノとしてそれなりの重厚感がないと売れない、とか。それ以上に、そもそも一定のページ数と価格にしないと経費がかかって印刷代も賄えないし、流通にも乗らない。
そういうロジックがあって、出版のしくみ全体も変わらないままここまで来ている。でも1冊まともな本を読むのに、数日とか8時間とか5時間とかがかかることって、もう普通の人の時間感覚とは合っていないんですよね。そこで、まず100ページ、がしっくりくるんだと思うんです。
三島:そうか。そういうことまで考えてなかったです(笑)。いや、考えていたとは思うんですが、そうやって具体的に説明されるのはさすが内沼さん、というか。
内沼:でも、感じてはいたわけですよね。
三島:出版社、編集者の立場からすると、固定観念に縛られていたなと思うんです。本は200~300ページにならないと成立しない。だからそこに持っていくために、いかに著者の方と本作りをしていくか。ある意味でそこが目的化しているというか、そこに向かって本作りしていく。そういうことが単行本編集者の中に刷り込まれていると思いますし、実際に僕もそうでした。100ページの本を作ろう、だなんて思ったこともなかったので。
だけどよくよく考えてみれば、本当に200ページ必要なのか、という“問い”が必要だったんです。たとえば、15本収録されている短編集で最初の3編は極めてすばらしい。でも他の12編は……という場合。
内沼:そこは3編だけで良かったんじゃないか、と。
三島:せめて全体で7編くらいにして、そのすばらしい3編をちりばめて全体を構成する、とか。そうじゃなく15編入っていると、それこそ最後まで読めなくて、途中で読むのを止めてしまったことってあるんじゃないかと思います。僕もあります。もちろん本好きの人がそうやっていろんな読み方をしているのは“アリ”だと思うんですが、日々、そこまで本に接していない人が何度かそういう体験をしてしまうと、本当は読みたいはずなのに、そこに入っていくという行為に対して自分で壁を作ってしまう。そういうことが起きていたんじゃないかと。本当はそれも含めて「本」で、美味しいところだけで作った本だけが良い本じゃないんです。すぐにはわからない面白さもたくさんありますから。でもそれはある程度、本を読む経験を読み重ねた人たちだけが見えてくる面白さであって、本を読み始めたばかりの人や、本を読む人の全員がそれを味わう必要はない、と思うんです。
そう考えると、一度「面白い部分」だけで抽出した100ページ前後で作った本を読み切ったら、絶対に本に対する接し方、捉え方が変わるんだろうなと思ったんです。
内沼:それは作り手にとってもいい話ですよね。いままではメインの主張は50ページあれば充分なんだけど、180ページないと商品にならないから、どうやってその間を埋めるかに苦心していたわけです。でも50ページで商品になれば、書き手にとっても良い部分になりますよね。
実は電子書籍ではそのページ数の壁を超えているんです。電子書籍が出始めた頃にいろんな人が言っていたことの一つに「電子は本をページ数の呪縛から解放する」というものがあります。たとえばAmazonでは、中には12ページで100円、というような電子書籍も売っているわけです。デジタルだとそれで成立するんですよね。電子書籍だとサイト上では表紙しか見えないし、「厚み」という概念もないから、ページ数を見て買っている人って、ほとんどいないと思うんです。仮に見ていても、そこが購入の大きな基準ではない、というか。ワンコインならとりあえず買っておこうかな、という感覚で。これがリアルな本だと、まず見た瞬間に「薄い」と思うじゃないですか。でも電子ではそれがない。
あとさっきも少し言いましたが、利益の問題。12ページ100円の本があったとしても、本屋の店頭スペースには限りがあるから、100円の本と1,000円の本で取れる利益のことを考えると、同じように扱うことはできないんですよね。流通上でも1冊100円の本を運んでどうやって物流コストを賄うか、とか。印刷上もそう。
そういう状況でもあえて紙でそれをやり遂げたのが、ミシマ社の「コーヒーと一冊」だと。
三島:そうだったんだ(笑)。
内沼:そう思いましたよ。
[3/8「10年後、20年後に新しい書き手がいないと、出版に未来なんてないわけです。」へ続きます](2015年6月16日公開)
構成:松井祐輔
(2015年5月22日、本屋B&Bにて)
COMMENTSこの記事に対するコメント